美術年鑑社発行「新美術新聞」2002.9.1号より

中島司有先生を偲んで
「あなた が 好きです」

さだまさし(シンガー・ソングライター)

 やれ、軟弱だ、戦争賛美の唄を歌う歌手だ、とさだまさしがいわれのない批判に晒されて、一番世間でやっつけられている頃、中島司有先生は僕を庇うように忽然と力強い味方になって颯爽と現れた。ご自身の個展でなんとさだまさしの詞を取り上げて書いてくださったのだ。國學院を中退している僕には眩しい母校の「大教授」が落ちこぼれのつたない歌を取り上げて下さる。何だかそれだけで無言のエールを贈られたようで勇気百倍だったのを憶えている。
 恐れ多くて最初にご案内いただいた個展には気が臆して伺えなかった。銀座の個展の時、勇気を振り絞って出かけてやっと先生にお目にかかった。母校の教授、というだけで緊張する僕を、包み込むような暖かさでお迎え下さったっけ。それからひどく興奮して会場を歩いた。先生が書いて下さった僕の詞の中で「防人の詩」の前に暫く立ち止まった。思わず身体が震えた。文字というものの底知れない深さに打たれた。「ありゃあ」と深く息を吐いた。「僕の歌なんかよりずっと心に響くなあ」と。
 それから先生は幾度もさだまさしの歌を取り上げて書いて下さった。いつも、図録に載った自分の歌を恥かしさ半分、誇らしさ半分で眺めた。
 「夢の轍」というアルバムは、今年に入って三軒茶屋駅の喧嘩殺人公判で裁判長が引き合いに出して話題になった「償い」という曲を含む中期のアルバムで、いわゆる「通」には評判の高いアルバムだったが、この時先生の個展に伺って感動したスタッフが題字の揮毫を先生にお願いした。先生は急なお願いにもかかわらず、アルバムのジャケットのデザインまでして下さった。これは今でも宝物である。
 丁度その頃コンピューターが普及し始めた頃で、先生の弟子でもあり僕の同級生でもある友人が「先生の文字をフォントにしたい」と言った事がある。まさに日本の文字を伝えるのに先生の楷書程美しいものは無いと思う。先生の書かれた「般若心経」の前で随分永く立ってながめたのを憶えている。
 ある時、「私の好きな言葉です」と添え書きされた書が余りにも素晴らしく、とうとう無理を言って譲っていただいたものがある。僕はその言葉をタイトルに歌まで作った。それにはこう書いてあった。
「あなた が 好きです」
 何という空の高い、背筋の綺麗な伸びやかで清々しい文字と言葉だろう。まさにそれは先生の御心そのものであった、と今にして切なく偲ぶばかりである。また国宝を失った気がする。

合掌

 


 芸術新聞社発行「墨」2002.9・10月号より

司有先生を偲んで

佐伯司朗(現代書道研究所理事長)

 私が先生と出会ってから32年が経った。先生のそばで仕事をさせていただいた時期はまさに、先生が代表作を作られた時期と重なり、個展や海外展、『藤原佐理研究』の博士論文と次々に大きな仕事をされ、何時寝ていらっしゃるのかと思う程ご多忙な毎日だった。
 縦1メートル・横1メートル・幅50センチの発泡スチロールを6個使った珊瑚礁という作品の時など、のこぎりで無造作に切ったあと、薄めたシンナーを筆につけて何ができるのかと目を見張っているうちに、文字が浮かび出てくる。布や紙のコラージュでもハサミがまるで魔法にかかったごとく、美しい形になっていく。もちろん下書きなどは一切しない。その他油絵・墨象なども心が浮かんだままが造形となる。さらに細楷の作品は朝から深夜に及ぶ事が多かった。酒を酌みながらも筆は乱れることなく、ますます冴えていく。その姿は常人には寄り付けない気魄を持っていた。先生は日本をこよなく愛し、ご自分でも美しい大和言葉で詩や歌を作られた。
 特に思い出されるのは昭和天皇のご崩御の時であった。その悲しみの深さで立っているのさえ危ういと思われたが、宮内庁での墓標の揮毫は生涯で最も辛いお仕事であったと思う。そばに居る私でもこのまま先生が倒れてしまわれるのではないかと思う程であった。常々先生はよい文章を読み感動し、何時でも子供のような素直な気持ちを大切にしなさいといわれた。私達門下生にも、こうしなさいとは滅多におっしゃらなかった。しかし、いい加減なものには容赦なくカミナリが落ちた。人間の一生は限られた時間であり、二度と戻ってこない。一瞬一瞬を無駄にせず、一枚が清書という気持ちを持てと言われた事が、今の自分の宝物になっている。

 

 


 2002.7.19 告別式・弔辞

中島司有君にささぐる
挽歌一章並に反歌

 岡野弘彦(日本芸術院会員・歌人)

歩みきて  道にかなしむ
わが友の  中島  司有
    うつし世を  にはかに去りて
    おもかげは  いよよすがしき

沙羅の花  咲きてちりぬる
  夏かげの  木むらの道に
    君が声  さやかにひびき
すこやかにありし  かの日の
  旅ゆける  異郷のやどり
    つばらかに  思ひさびしむ

かの旅や  昭和の御世の
  最後の 夏なりけらし

唐国の  敦煌の町
  見はるかす  荒野のはてに
  赤々と  しづみゆく陽を
    惜しみつつ  たたずむ我に
肩並めて  君は寄り来つ
  ゆくりなき  逢ひのたのしさ

うち集ふ  旅宿のひと夜
  君は醉ひ  われは歌ひて
日の本のやまとの国の

  をとめごの  歌を恋ほしみ 
  もぢすりの  文字をよろこび
短か夜の  明くる憂ひを
      ともになげきし 

かの日より  十余り四年
  君すでに  これの世になし
    老いの身の  蹉蛇たる我や
      心すら  幼くなりて
思ひ出ることの  つれづれ
  くりごとの  すべなけれども
    つばらかに  ここに申さむ

  反  歌

鳴沙山  かげりすずしきオアシスに   青きさかなを  見ていましけり

月牙泉  澄める水面にうかび来よ。 醉ひてたのしき  君がおもかげ

 

 


 全日本美術新聞社発行「全日本美術」2002.8月号より

暑い夏の悲しみ

松原 清(全日本美術編集主幹)

 うだるような暑さの続く7月15日、中島司有氏が逝去された。護国寺でのお通夜、告別式がしめやかにとりおこなわれたが、天皇、皇后両陛下の祭祀料と宮家の御名前のみが菊花の中に据えられた御葬儀の祭壇が印象的であった。司有氏は昭和42年より宮内庁文書専門員として、昭和、平成と天皇、皇后両陛下のお言葉、ご親書などの重要文書等の揮毫を34年間されており、陛下はその端正な楷書をこよなく愛されていたと聞く。
 中島司有(本名壌治)氏は書家であり、また学者であった。平成3年『藤原佐理研究』及び『日本文字文化の背景』其他の論考により國學院大學から文学博士の学位を得、平成5年には、昭和49年より毎年の如く開催した中島司有書作展の高評価を受け、芸術選奨文部大臣賞を受賞、そして昨年の平成13年に勲四等旭日小綬章を受章されている。
 常に夢を語り、少年の心を持ち続けた人で、弊紙には、中国美術史の執筆他でずい分御世話になった。佐理の研究では京都へ、又、中国、フランスでの中島司有書作展にも御一緒させていただいた。また一人、本物の作家が逝ってしまった。

 

 


 日本書道美術院発行「書道美術」2002.9月号より

中島司有氏逝去

 日本書道美術院

 本院評議員の中島司有(本名・壌治)氏は、7月15日午前2時35分、かねてより入院加療中のところ、享年78歳にて逝去された。
 葬儀・告別式は7月19日午前11時30分から、文京区大塚の護国寺・桂昌殿斎場で執り行われた。喪主は妻・ツヤ子氏。
 中島氏は、毎日書道展の前身である第2回日本綜合書芸展(昭和24年)で最高賞(特別賞)、日書展で昭和25年に最高賞(文部大臣賞)を受賞するなど、大変に早い時期からその書芸に頭角をあらわし、本院に在籍してはいたが、それにとどまらず、独自の活動を展開されていた。
 文学博士・國學院大學名誉教授、現代書道研究所長、近代詩文書作家協会参事などの要職を務められるほか、昭和42年4月より平成14年3月まで、天皇・皇后両陛下の重要文書揮毫を担当する、日本で唯一の宮内庁文書専門員という稀有なお仕事を続けられた。
 特に、正確な楷書を得意として、正しく読みやすく分りやすい端整な楷書に、正体のひらがなを組み合わせ、整然とした漢字かな交じりの世界を創り出した。
 昭和48年から始まる一連の個展活動は、国内に止まらず、昭和63年中国の北京・上海両市での個展開催を機に、同年イギリスでの書作展で国際文化平和功労賞、平成元年ポルトガル、平成3年フランスでの書作展で国際芸術功労賞を受賞。平成5年3月に、芸術選奨文部大臣賞受賞。
 また、一般通念として、判らなく読み難いものが芸術書であるように思われているが、中島氏の、誰にでも判りやすく、しかも素材である詩や文章の感動が伝わるような書表現に力を注いできた成果が認められ、平成13年11月、勲四等旭日小綬章を受章した。

 

 


 五禾書房発行「書道」2002.9月号より

司有先生を偲んで

中村  (現代書道研究所最高顧問・元衆議院議員)

   敬愛する司有先生が急逝された。誠に残念であり、ご指導を賜った者にとって、まさに巨星墜つ≠ニいった衝撃であった。
  私には書を教えていただくという素質も才能も無く、書について一回もご指導を受けたことはない。しかし、人生の師として、あらゆる面で教えを受けた恩人である。
  父・梅吉が文部大臣をつとめた関係から、書道界の諸先生と親交があり、とりわけ、日本で唯一人の宮内庁文書専門員として天皇皇后両陛下の重要文書の揮毫をされる中島司有先生とお目にかかる機会が多く、先生の書展など毎回お伺いし、親子二代に亘りご懇篤なおつき合いをさせていただいた。
  司有先生は書道を芸術としての分野からだけでなく、文字と言葉の関連を科学的な面から捉えることによって、学問としての「書学」にまで発展させた方である。
  母校國學院大學の教授として書芸術や書学を後進に伝えるために心根を傾けられ、またこれを学生だけでなく、もっと世に広めるため現代書道研究所を創設し、主宰され、また次の時代を担う子供たちの育成のため書道研究銀河会を創設し、心の教育の実践を行ってこられた。
  「藤原佐理研究」で文学博士号を取得され、まさに日本書道界を代表する人物になられた。
  中国をはじめ、海外で度々個展や書作展を開き、イギリスでの書展で国際文化平和賞、ポルトガルやフランスでの書作展で国際芸術功労賞を受賞、海外との芸術文化交流にも大きく貢献された。
  とりわけ、北京における書展のおり、私も同行させていただいたが、広い会場の設営のため自らお元気に自転車で場内をかけ廻っておられたお姿が目に焼き付いている。
  そのような功績が認められ昨秋の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章された。
  先生は酒を愛し、ユーモアを交えた話ぶりは、青年時代にNHKのアナウンサーやプロデューサーをされた頃に培かわれたものであったのかも知れない。
  本当に忘れ得ぬ人として、先生との思い出は私の心の中に永遠に残ることと思われます。
  司有先生亡きあと、奥様・ご長男様はじめ中島家をおまもりいただきますとともに、現代書道研究所・書道研究銀河会は佐伯司朗先生ご夫妻を中心に益々ご発展されますよう心からお祈り申し上げます。
  謹んで司有先生の御霊やすかれとお祈り申し上げ追悼のことばと致します。

 

 


 五禾書房発行「書道」2002.9月号より

「中島司有」を悼む

田宮文平(書道評論家)

  書道界の多くの人はもちろん、一門の現代書道研究所の人にとっても「中島司有像」というものは、昭和天皇の祐筆≠ノシンボライズされているのではないかとおもう。すなわち、かつて入江侍従長が言った「正楷」の世界である。
  それはたしかに中島司有後半生の実像であるが、わたしなどの抱いている「中島司有像」は、むしろ前半生のもので、その落差から遠藤司英さんなど高弟周辺ともおのずと距離をおくようになってしまった。いつか、遠藤さんから「田宮さんは、中島先生の楷書が嫌いなんでしょう」と言われて、おもわず絶句した。
  わたしが、中島司有をはじめて知ったのは、昭和二十二年(一九四七)である。当時、父が三越重役の世話で、新宿店に表札や看板などを書く揮毫店を出していた。わたしは小学四年だったが、学校が終ると盛り場のある父の店にいつも遊びに行っていた。伊勢丹はまだ、二階までしか営業していず、屋上には星条旗が翻って司令部となっていた。
  その父の店に中島司有が着流しで、ひょっこり現われたのである。生憎、父が留守でわたしが名を尋ねると、「こんな恰好の男が来たと言ってもらえば分かります。」と、ひと言、ポツリと言って帰えって行った。それが、中島司有でまだ、国学院の学生だったのではないか。
  わたしの父は栄田有宏と親しく、その縁戚の関係で中島司有を早く知ったのではないかとおもう。父には書道界に限らず、将棋界でも落語界でも、粋に収まり切れない元気な若者を可愛がるクセがあった。飲みにつれ歩いたり、ときには小遣いをくれたりするのである。
  中島司有の並々でない資質を見抜いた父は、自分の発行する『書芸新報』に「鵜殿大木」というペンネームをつくり、徹底した書道界批判をやらせた。当時、「(日本書道)美術院で飯島春敬にまともに渡りあえるのは中島司有ぐらいだろう」と父が言っていたのを想い出す。
  昭和二十三年(一九四八)に日展がはじまると、かな部入選十六名の一人に中島司有は入った。そして、昭和二十四年(一九四九)、昭和二十五年(一九五〇)と二年連続して入選したが、その後は、なぜかぴたりと出品をやめてしまった。
  かくするうち、国学院を出た中島司有はNHKに入り、四国徳島そして松山に配属されると、中央書壇とは縁が切れたかのごとくで、時折、現地での武勇伝を耳にするのみであった。

   十数年のNHK勤務から東京へ帰って母校に職を得ると、書活動を再開した。外見はアナウンサーの口調で丁寧に話すが、かつての狂気は健在だったからブランクもあって随分あちこちで齟齬を来たしたのではないか。
  そのころは、わたしも成人して出版社勤めをしていたが、酒も飲める年齢に達していたので、村田龍岱門の田中碧濤などと共によく痛飲した。父の百駕層艸堂楼上で、酔ってふらふらになりながらも書きまくっていた姿が、いまも鮮やかに想い浮ぶ。
  中島司有は生来、左利きであった。それを矯正するために書きはじめたが、若くして免許皆伝を得た。わたしのよく知っている時代は、かなと写経、それにときに現代詩を書くことはあっても、例の小楷はまだ、登場しなかった。
  宮内庁文書課員の打診があったときは、「ヤクザな性格を自覚しているから、お断わりをするつもり」であったらしい。しかし、侍従から「この書なら間違わずに読める」との陛下のことばが伝えられると、一転、誠心誠意お仕えする気になったとは、ご本人の弁である。
  中島司有には前半生のかなと写経、後半生の発泡スチロールによる巨大な『珊瑚礁』や油彩による『氷壁』の現代書など、昭和書史に残る記念碑的な仕事が数々ある。しかし、、例の小楷でイメージされることが多く、その人も書もいまだ、本質的に語られることが少ない。
  七月十八日に東京護國寺桂昌殿で営まれた通夜に参列し、久振りにかつて中島司有が、ご母堂と暮らしていた門前の家の跡を尋ねた。そこは都電S番線のプラットホームの前であったが、いまは、線路もホームもなく、ましてや、そこに中島司有が住んでいたことを知る人もほとんどいない。わたし自身、来し方を振りかえって感慨無量であった。合掌。

 


 五禾書房発行「書道」2002.9月号より

日書美の司有先生

飯島春美(日本書道美術院常務理事)

  ご逝去を悼み、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
  今ここに、「第四十回記念・日書展作品集」がございます。その中に司有先生の『再建書道展に想う』というご一文が載っております。
  昭和二十年、戦禍治まらぬ焼土の地に結成された日本書道美術院のこと、昭和二十一年七月に東京都美術館で開催した「再建書道展」に、当時二十二才でご出品になり、褒状をご受賞なされたことなどが懐しく記されています。筆墨を揃えるにもままならぬ大変な時世の中、全国の書道人が参集し開催の運びとなった「第一回・日書展」に、お若くして出品された先生の書への燃えるような情熱に感動いたします。と共に日書美の創成期から今日までを、すっかりご覧になられた諸先生方がもう本当に少なくなってしまった現在、今更に司有先生のご逝去は惜しまれてならぬ思いでございます。
  司有先生は、昭和二十四年の「第二回・毎日書道展」で仮名部の最高賞を、そして昭和二十五年「第四回・日書展」でも栄ある仮名部最高賞を獲得なされて、書道人としてのお立場を確立したにも拘らず、ひととき書道界からお離れになり、NHKのアナウンサー、國學院大學の教授、宮内庁文書専門員などをご歴任、その傍ら「藤原佐理研究」を著して文学博士となられました。ここでは多才なご活躍についてはふれませんが、司有先生が興された現代書道研究所には、日夜、師の教えを基として古典に立脚した現代書を研鑚する多勢の門人方がいらっしゃいます。
  日書美には先生の大きな足跡が沢山ございます。故春敬理事長が提唱し実践した「新書芸」という日書美独特の新しい書表現に、司有先生も共感して、多くの作品を発表し遺されました。いうならば先生は、日書美の新書芸作家として私共の大先輩でいらっしゃいます。現代書道研究所の皆様、特に新書芸作家を志す方々に、ぜひ司有先生のエネルギーを受継いで、日書展や毎日書道展ばかりでなく広く書道界に羽ばたいて下さいまし。
  司有先生もきっときっとそれを望んでいらっしゃると思います。