中島司有エッセイ集

 


「いよいよ21世紀」 第24回日本書展自己紹介文
「近代の書の流れ」 2002年4月号〜7月号銀河掲載
「水の話」 2002年3月号銀河掲載
「芸術をこころざす若き友へ」 2002年2月号銀河掲載
「礼儀をとりもどそう」 2002年1月号銀河掲載
「こんにちは、赤ちゃん」 2001年11月号銀河掲載
「ある思い出から」 2001年10月号銀河掲載
「父母よ、教育界に感激をとりもどせ」 2001年9月号銀河掲載
「現代の若者よ!」 第23回日本書展自己紹介文
「お父さんとは」 2001年8月号銀河掲載
「親御さん、よくきけよ」 2001年7月号銀河掲載
「しごけ ―日本の良き父上母上―」 2001年6月号銀河掲載
「たかが子どもだ ―日本の良き父上母上に―」 2001年5月号銀河掲載
「飢餓感」 2001年4月号銀河掲載
「他流試合」 2001年3月号銀河掲載
「展覧会とは何か」 2001年2月号銀河掲載
「燃えること」 2001年1月号銀河掲載
「山の案内人」 2000年12月号銀河掲載
「一には御手をならひ給え」 2000年10月号銀河掲載
「「書」の学習は芸術的より科学的に」 2000年9月号銀河掲載
「現代の文字を書こう」 2000年8月号銀河掲載
「おそろしい世界」 2000年7月号銀河掲載
「創作書などあり得ない」 2000年6月号銀河掲載
「六 芸」 2000年5月号銀河掲載
「書とは何か」 2000年4月号銀河掲載
「学習以前のこと」 2000年3月号銀河掲載
「書とは有用なものでなければならない」 2000年2月号銀河掲載
「書は人なり」 2000年1月号銀河掲載

 

 

いよいよ21世紀

 いよいよ21世紀。
 私が10代の頃は、日本は戦争のまっただ中であり、敗戦と同時に大学を卒業した。
 今の日本の様に何でも手に入る時代ではなかったからか、ピカソやマチスなどの芸術運動に憧れ、油彩や彫刻・抽象等書きたいもの・表現したいものがたくさんあった。そして次々と作品を作り、経済的には苦しかったから、自分で料紙を作ったり、表装したりもした。
 現代の若者よ!もっともっと燃える様な情熱を持って作品を作ろう。君達は平和な豊かな時代に生きている。一日一日を大事に自分の歴史を綴って欲しいものである。

 

 

近代の書の流れ

 明治十三年(1888)清国から楊守敬が日本に渡来した。当時の清国公使何如璋が招いたといわれる。楊守敬は清国の高等文官試験「科挙」に合格できなかったので、却って発奮して学問にはげみ、また書学を好み、金石文を研究し、多くの研究書をあらわした。特に、それまで、王羲之中心、漢民族の書中心であった中国の書の研究法にあきたらず、北方民族の書法のすばらしさに目を向け、「高貞碑」「張猛龍碑」「龍門造像記」など北方民族が生んだ力強くたくましい書法の学習と普及に精力的につとめた。
 この北方民族の書や絵画・彫刻など、北方文化に注目した人々は、楊守敬だけではない。清という国家は中国全土を統一した国ではあったが本来は、満族とよばれる北方民族が、中国の東北部(昔の満州地方)で建国し、漢民族国家の明をほろぼして中国を統一してつくりあげた国であり、皇帝自体が満族の愛親覚羅氏出身であったため、中国大陸の住民政策にも漢民族以外の少数民族への配慮がはらわれることになった。特に、それまで顧みられることのなかった北方民族が南北朝時代(439年〜589年)に残した文化などは、満族と同じように、永い間、漢民族から無視されていた北方民族の文化として、清朝では積極的に保護開発が行われ研究が多いに進んだのである。
 楊守敬は、しかし、公使館を介して、いわば公人の資格で日本に渡って来た。彼は多年にわたって蓄積した文物と知識を伴って日本の文化人たちの前にあらわれ、明治という新鮮な時代に生きる日本の人々に強烈な刺激を与えたのである。ただし賢明な清国の公人たちは、「北方民族の書」という紹介はしなかった。南朝北朝という呼びかたをすれば、当然、清国や清国皇帝の、北方民族国家や北方民族出身の統治者等という性格が不必要に広められるという配慮があったことと思われる。新しく紹介された言葉は「六朝書道」であった。考えれば、日本人が古くから知っている王羲之も王献之も陶淵明もすべて六朝の文化を築いた人である。本来の六朝とは、漢民族が南京を都として、南方に築いた国家、呉・東普・宋・斉・梁・陳の六代の朝廷をさすのであって、北方民族と絶縁した漢民族の朝廷を総称したのである。
 しかし、明治の人たちにとって、そのようなわずらわしい説明は不要であった。明治の書道愛好家たちは、新鮮な魅力にあふれる「六朝書道」に眼を輝かせてとびつき、心酔していったのである。
 日下部鳴鶴・巌谷一六の二人が先ず、楊守敬の益をうけた。
 また一方、明治十年、清国に布経の目的で渡った東本願寺の僧北方心泉は、主として蘇州・抗州の地を歩きながら、中国本土で流行していた北方書を敏感に体得して、明治十六年帰朝、また、明治十年ごろから長崎で中国書法の影響をうけていた中林梧竹が明治十五年北京に渡り、楊守敬の書学の基本となっていたといわれる播存に直接入門して書法をうけ、明治十七年帰朝、これらの諸家が、いわゆる新派として明治の書の世界に大きな影響を与えるに至った。
 このように思いもかけぬ強力な書の流れが突然中国から押しよせた際にも、それまで国内で大家の名をほしいままにしていた長三州・金井金洞成瀬大域・吉田晩稼等は、顔法を骨格とし、各自のうけた師法を血液として、頑として新書法を拒否する姿勢を保った。必然的に旧派の称号をうけることになる。
 こうして新旧二派が、それぞれの主張をもって書を学ぶに至ったことは、我が国の漢字学習にめざましい貢献をしたのである。
 新派の人も旧派の人も、書を以て家を興すほどの者は、幼時から漢学を身につけ、中国人に会えば、筆談をし、詩を贈答して、精神的交流が行えるほどの人物ばかりであった。そのような人物たちが、それぞれ反対派に対して自分の存在を明らかにするために、或は学び或はその研究を筆に托して書とするわけであるから、明治期には気概のある筆跡が新派旧派ともに残っている。
 しかし、旧派は後継者たちを師法を大切にする傾向で教育しようとしたためか次第に活気を失い、若者の参加も次第に減って衰退に向かった。
 それに対して新派の傾向は、鳴鶴や一六とは歩調を合せなかったが西川春洞が独自の鋭敏な感覚で、清朝碑学派の徐三庚や趙之謙の仕事を理解し、多方面な開拓を行なった。下町の子弟二千を集めて鳴鶴・一六とは別の下町派とよばれる集団を形成した。
 また、明治六年、二十一歳で江戸に出た前田黙鳳は、鳴鶴・一六・梧竹等を訪ね、また中国にも渡り、明治四十一年には健筆会を興すなど書人としてはジャーナリスティックな活躍をした。
 この黙鳳等が日下部鳴鶴・中林梧竹・徳富蘇峯等を動かして、明治四十年六月、談書会が生まれる。会員は忽ち四〇○人に及び、鳴鶴、河井廬、前田黙鳳、近藤雪竹等十一名が幹事となった。一六は既に病歿している。
  「談書会」は近代日本の書の歩みの中で、極めて意義深い集まりであったが、現代書人の中で、知る人は極めて稀となった。  明治四十年六月に創立され隔月に一回会合して、流派を問わす虚心に書を語り合うことを会約とし、「談書会誌」を刊行した。参会者は毎回八十人をこえ、会誌の刊行も百巻をこえたが、関東大震災で継続不能になったもののようである。「談書会誌」は、また「談書会集帖」ともよばれ、貴重な出版物であるが、今は時折古書店で端本を見るにすぎない。書店で有名な「飯島書店」の飯島佐光氏に以前聞いてみたが、全巻そろって扱ったことは一度もないといわれる。司有の手許に数冊あったが空襲で焼いて今は全くない。
 しかし、これを機に書道誌に古典の紹介などが載せられ、いわゆる競書誌の質が高められることになる。
 ちなみに、競書誌の先駆は、明治三十五年六月に創刊された「筆の友」であろうか。齋藤芳州によって書道会初めての成績人名表(番付)を掲載した。この「筆の友」はやがて齋藤芳州を会頭とする「書道奨励協会」の機関誌となり「書道奨励協会」が更に発展して巌谷一六を会頭に迎えるようになってから本格的な書道誌となり、金井錦洞・野村素軒・杉溪六橋ら歴代会頭のもとに刊行が続けられた。創刊者齋藤芳州は昭和三年十一月、七十七歳でなくなっている。書名は知られることが少ないが、東京府立一中(現・日比谷高)・明治大学・錦城中・麻布中等名門校で教育の足跡を残した。「筆の友」は第二次大戦中、用紙の統制で一時休刊したが、戦後復刊し、現在も田中真州翁を主幹として刊行されている。
 実は、これより先に、明治三十年、小野鵞堂を主宰とする斯華会から「書道研究」が刊行され当時としてもっとも著名な月刊誌であったが、本来は鵞堂の「書道講座」が発展したものであり、内容も雑誌というよりは鵞堂門下のテキストならびに連絡誌の色彩が強いものであった。和様の流れを述べるときに再述したい。
 談書会発足に遅れること四年、明治四十四年になって競書色を全くぬぐい去った豪華な月刊誌「書苑」が法書会から創刊される。A四版という大きな刊行物で、当時、墨宝を多く秘蔵していた名門貴顕の人々が進んで刊行に協力したために、日本・中国の妙墨佳蹟が次々と原寸大の高級印刷で紹介されることになり大正九年までに全十巻、毎月一冊ずつの刊行で、百巻を刊行して終了した。これに続いて「書畫苑」刊行も企画されたが、この方は第三巻までで中絶している。これに用いられたコロタイプ印刷は、印刷術の発達した今日でも、どうしても及ばないといわれる程精妙なもので、今でも古書市で注文の絶えない貴重本である。関西の出版社「同朋社」で、やや原本に近い復原本を作っている。
 この法書会刊行の「書苑」とならんで、貴重な月刊誌と考えられるものは、三省堂発行の「書怐vがあげられよう。昭和十二年一月に創刊され、昭和十九年三月、戦時下の用紙統制のため廃刊となった。主幹は、書学者藤原楚水、当時の日本および中国の書学に造詣の深い知識人を執筆者とし、競書色をのぞき、高度な書学研究誌としての姿勢を貫いた。折しも日支事変から、第二次大戦にあたる、きびしい国際状勢のなかで、中国有識者の協力もあり、日本の研究者もよく努力し、この高度な専門誌の刊行が継続されたことは大いに賞讃されるべきであろう。内容は中国書跡の紹介に重点がおかれたのは、主幹藤原楚水博士の研究分野として当然であろう。ただ、日本の書の流れについて、竹清三村清三郎翁(明治5年1872〜昭和28年1953)が野人の立場から記録した江戸の書人の記録などは貴重な資料といえるであろう。この三省堂の「書怐vも同朋社によって再刊され、この再刊の分は、戦時中の粗悪紙を用いざるを得なかった後半を、美しく再現してくれていることなどが喜ばしい。
 「談書会誌」「書苑」「書怐vを中心に書いた。書籍は大切である。しかし、今では俗書があふれている。よい本をえらんで備えておこう。
 日本的な書の流れを見よう。江戸時代、幕府は、国内統治のため、施政にさまたげとなる思想や、学問を禁制する万針を取った。
 文字の学習にも神経をとがらせ、足利時代尊円法親王(1298―1356)によって完成された青蓮院流を武家公家共通の標準書体として取りあげ諸大名たちの公式文書、一般に公布する制札などの書体もこれを用いることを推奨した。しかし実際には使うことを制定したのである。この書風を御家流とよび、宮家から出た書であるからこのように呼ぶのだと一般には考えられているが、実は将軍家が御家の御法度として、これを用いることを命じたためにこの名があるのではないかと、司有は考えている。
 ともかく、この幕府の政策によって、自由な文字学習は制約された。
 江戸の初期、当時の書流は、後京極流、定家流、勅筆流、近衛殿流、瀧本流、光悦流などさまざまあり、また一方で明から入った僧侶等を通じた唐様などもあり、かなり多彩であったのである。しかし、幕府は、これら諸流の伝達者が、それぞれ人格的に魅力があったり、地位身分などが高かったりすると、学習の間に何等かの勢力が生まれることをおそれ、結局政治性無縁の青蓮院宮系の文字を推奨し、えらび出したように思われる。
 海外からの書の学習も、学習の中に好ましくない新思想が一緒に流入することを恐れて、幕府は警戒した。いわゆる唐様の書風は教える方も学ぶ方も、幕府の看視を受けたと見てよいであろう。
 「売家と唐様で書く三代目」という川柳は、学問ばかりあって実行力のない三代日の若旦那が、親譲りの財産を人手に渡すことをからかっているのだとする解釈が一般的であるが、実は、武士でも学問を許される上 流の町人でも、唐様などに興味を持つと家をつぶされるという徳川家政治への恐怖のつぶやきと、司有は考えるのである。
 従って、江戸時代、二・三の例をのぞいて和様書道のすぐれたものはない。
 この傾向は、明治期に入っても続き、明治・大正・昭和の戦前まで、一部の先覚者を除いて、和様特にかなを正しくみつめる傾向は少なかったといえる。  しかし、とにもかくにも閉鎖的な徳川幕府は倒れ、文明開化の世とはなった。ただし、開化をのぞむあまり、欧米文化に日本は急傾斜してしまうのである。
 日本人が、日本に意識を戻すのは明治も二十年ごろからだといわれる。極端な欧米文化心酔の風潮をにがにがしく思っていた日本人の一部が、国粋主義を叫んで運動をはじめたのであった。
 日本文化尊重が叫ばれ、国学や国文学の必要が力説されはじめた。こうした流れの中で日本の書も人々に意識されるようになり、明治二十三年、難波津会が発足する。結成者は三條実美(号梨堂)・東久世通禧(号竹亭)・高崎正風であり、会員には小杉 邨・多田親愛・植松有經・阪正臣・小野鵞堂・大口周魚等が参加した。各人が作品を持参し、鑑賞・互評とあわせて書談を楽しみ、また古典の名筆を秘蔵者を尋ねて鑑賞研究を行ったのである。後年の上代様の書流は、ここに起源がある。
 ここに名を掲げたものの中で、まず技法的にすぐれ、新時代の指導者として十分な年齢に達していたのは多田親愛である。天保十一年(1840)に生まれ、明治三十八年(1905)まで生きた。はじめ、東京芝(現在港区)の神明神宮の祢宜であったが、政府に召出されて神祇官となり、大学出仕を命じられた。この大学は幕府の学問所であった昌平黌を改めたもので、習字教育は重んじられなかったが、多田親愛の研究には便宜があった。更に明治七年博物館所属となり、以後二十年を勤続することになる。
 ここで彼は、館長の信頼を受け、博物館所蔵の、十巻本歌合に属する寛平御時后宮歌合を親しく臨学する機会を与えられ、平安時代の日本の書のすばらしさに眼をひらくことができたという。この感激が十五歳年少の阪正臣(安政二年1855―昭和六年1931)をゆりうごかし、二十二歳年少の小野鵞堂(文久二年1862―大正十一年1922)に夢をあたえたのであった。
 先号に記した難波津会の意義は大きい。多田親愛も阪正臣も小野驚堂も、はじめは江戸風の俗流を学んでいたが、この難波津会ではじめて晋唐風の漢字や平安朝の和様にふれる機会を持ったのであった。それでも阪正臣と小野驚堂とは切角のよい古典にふれる機会をもちながら、なお江戸風の漢字・かなを変化をつけて調和させる通俗書流を捨てきれず、それぞれに大家となって名を成したが、その書は、晋唐平安の域に入ることはなかった。
 二人よりやや遅れて、上京し、明治二十二年宮内省御歌所に奉職したのが、大口鯛二(元治元年1864―大正九年1920)である。号を周魚とした。高崎正風に師事して和歌を学ぶ一方上京後間もなく桂宮本万葉集の断簡に接して心をうたれ、書を平安の和様に求め、難波津会に入って古筆に多く接して鑑識力を高めた。この大口周魚が明治二十九年(1896)八月、京都西本願寺の庫裡において、後奈良天皇から西本願寺に下賜された『三十六人家集』壱函を発見、平安朝のかなの美が一世を酔わせ、古筆研究熱が高まるという大功績をあげたのである。
 これよりさき、明治八年(1875)四月、京都住吉派の直系有美の子として誕生した田中親美は父有美から大和絵を、多田親愛から書を学んで天賦の才を磨いていた。平凡社刊『書道全集の「年表」』(中村忠行氏担当)によれば、明治二十一年ごろ、昭憲皇太后の思召によって、百人一首の絵を田中有美、書を植松有経と田中親美が揮毫、奉納したとある。実に親実の数え年十四歳の時のことで、異才といえるであろう。
 この田中親美が、父有美や師親愛と親しい大口周魚の大発見にいち早く見学の機を得、大きな感動を持ち、何とかこれを複製したいと願いを持つに至ったのである。
 文字だけならとにかく、さまざまな用紙を用い、染紙も種々の技法を用い、金銀の切箔や砂子を高度な技術で使い分けている原作を見て、これをそのままに複製しようと考えるのは、一見向う見ずの野望といっていいであろう。親美は二十二歳であった。
 「取りかかって見て驚きました。紙も製法が途絶えているし、何の材料を使ったのかわからないものも多い。料紙の加工についても、技術者が居なくなってしまって、はじめから技術を研究開発してゆかなければなりませんでした」司有は後年、親美翁から親しくこのような話をきいた。
 親美が十年をかけて複製を完成した時、彼の周辺には同時に、長い間途絶えていた、用紙加工の技術、切箔砂子の技術、書物の装訂等に長じた多くの技術者が育っていたのである。
 これに要した資材や経費は、益田孝・団琢磨ら文化に深い理解を持った経済人が快く支援を続けた。
 親美にとってこの壮挙が完成したことにはさまざまの原因があるが、写真印刷の部門が、日本では未発達の時期にあったことと、親美が精緻な手づくりを迫求する絵師の家の子だったことを忘れるわけにはゆかないであろう。
 しかし、親美は、手仕事に熱中できる技術者であると共に、わからない事はわかるまでしらべあげる科学者であった。そして、よいものは広く人々に研究の機会をあたえ、文化を人の輪によって高めようと考える美の布教者でもあった。親美は以後「降能源氏絵巻」・「平家納経」「久能寺経」等、多くの文化財の複製を果たし、高野切古今集・継色紙・寸松庵色紙・桂宮本万葉集等の名蹟を木版・写真等を駆使して次々に複製して世に送り出した。原色本関戸古今集の如きは数版を改めて複製し、今も諸家に宝蔵されている。
 西本願寺本三十六人家集のうち、「貫之集下」と「伊勢集」とは、龍谷大学建設資金をつくるため、昭和四年分割して有志に頒たれたが、親美はこの時も、記念に原色の複製数部をつくり、モノクロームコロタイプ本の二帖をつくり、分散する秘宝の原型を留めるために心をつくした。
 親美が複製を手がけた原本のうち、第二次大戦などの災厄によって喪われたものは少くないであろう。親美の原作そっくりの複製は原作喪失の時代の原作として、その価値を日毎に高めつつあるのである。
 昭和三十四年、親美は日本芸術院恩賜賞を受けた。昭和四十九年百歳で永眠。書道界の長老といわれる人達のほとんどすべてが、直接間接の益を受けている。古くは小野鵞堂が自分の書はもはや転換してゆくことができないので息子には正しいものを学ばせたいからと入門させた小野小鵞をはじめ門下も多く(親美は弟子とは誰もよばなかったが)、尾上柴舟、羽田春埜、相沢春洋、飯島春敬、安東聖空、日比野五鳳ら、及びその高弟たちで親美の教えを受けなかったものは一人もいないといっていい。時間があれば誰とでも会い、知っていることはつとめて伝えようとした。
 日本の書のすばらしさを、真に知って、現代に伝えた最高の師であった。 

 

 

水の話

 中国旅行中、私たちの仲間にMさんという若い大学の先生がいました。とても勉強家で中国語もすばらしく上手なので、仲間は皆、尊敬し、たよりにしていました。
 Mさんは、今度は中国訪問三回目。今までよりももっと中国を勉強しようと参加されたようです。日本を出る時から、既に、中国の工人服に帽子という紺色ずくめの地味な服装で、中国人になりきって生活してみようとの意気ごみが仲間を感動させました。
 中国でも、Mさんは早速中国の人たちに親しまれ、道をきかれるやら、買物の案内をたのまれるやらで大忙しです。
 宣伝的に書けば、「Mさんは、こうして大いに日中友好の実をあげた」と書きたいところですが、中国で、中国人と間違えられ、「日本語の上手な中国人がいてくれて助かった」と思われただけなのですから、Mさんの努力は日中友好とは思われなかったことになるのです。
 でも、気のいいMさんは「また歌をおぼえた、また面白い言葉づかいをおぼえた」と目を輝やかせながら、中国の人に親切に交際をし続けました。
 そのMさんが、一つだけ失敗しました。夜行列車で、北京から洛陽に行った時、早朝、列車の洗面所で顔を洗っていると、中国の車掌さんが戸を開けて洗面所に入って来ました。そして、Mさんに、「同志よ、もっと水を節約して顔を洗った方がいい」と忠告したというのです。
 Mさんは不愉快な顔をせず、「参った、参った」としきりに感心していました。
 日本人は顔を洗う時、手で水をすくいあげ、手を動かして顔を洗います。しかし中国人は洗面器に水を満たし、顔の方を静かに動かして洗面をするのだそうです。どちらが水をたくさん使うか、考えればはっきりわかることで、日本人の洗面の方が水を多く使います。
 中国では良質の水に恵まれない地方が多いのです。中国の水は、ふつう硬水で石灰分が強く、飲水には適しませんし、石鹸も溶けないのです。そこで、列車の中でも旅客が飲料や洗面に使う水は、煮沸したあと冷却したりして手を加えた大切な水なのです。
 その水を、中国人としか思えない人物が、日本人のように乱暴に使っているところを見たのですから、車掌さんとしても忠告せざるを得なかったのでしょう。
 特に煮沸したり冷却したりした大切な水と書きましたが、中国の人は、天然の水でも大切にするようです。飲料どころか、洗面や洗濯に適した澄んだ水さえなかなか得難いところが多いので、どうしても水を大切にせざるを得ないのです。
 昔、日露戦争の時、日本陸軍の通訳であった沖禎介と横川省三が、ロシア軍の状況を秘密調査せよという特別命令を受け、中国の現在の東北地方に潜入し、中国人民にまぎれてそっくり同じように行動していたにもかかわらず、ある日洗面中のところをロシア兵に見られ、中国人ではないことを見破られて、遂にロシア兵に補えられ、銃殺された話も残っています。
 日本人でも、水を大切にしなかったわけではなく、例えば真水が貴重な海軍では、食器大中小の三筒のうち、一番小さな食器一ぱいの水で、まず一番小さい器と箸を洗いその水を中の大きさの器になるべくこぼさずに受けて中の食器を洗い、同様にして大の食器も洗い、つまり小さい茶のみ茶碗一杯の水で食器のすべてを洗いあげる習慣をつけさせられたのです。
 Mさんの体験は、私たち一行全員にとっても、中国が贈ってくれたすばらしい贈物になりました。
 中国に行く前とくらべて、私なども、水だけでなく、いろいろの物に感謝をしたり大切にしたりする気持が強くなったようです。
 日本は水に恵まれた国です。飛行機で日本の領海上空に入ると、海の青さが目にしみます。山も川も、緑を帯びた美しい青です。
 水に恵まれた日本は物資にも恵まれています。農産物も水産物も豊かです。
 豊かすぎて、物を大切にしない習性が、いつしか、私たちについてはいないでしょうか。水に、お米に、お魚やお肉に、もう一度感謝しながら、日常生活を反省してみないと、神様の罰があたる、そんな気もしてきます。

 

 

芸術をこころざす若き友へ

 芸術は奇術や魔術ではない。どんなに不思議な線、不思議な色彩を表現する人の仕事でも、よくよく注意して見ると、やはり人間わざであることがわかるはずである。
 ただ、ほんものの芸術を生みだす人の仕事には心があり愛がこもっている。自分の仕事の中に徹底的に自分をつぎこみ、自分ぐるみ作品の中に永遠に生きようとする執念に近い自己愛がこもっている。
 「制作したいから制作するのだ」という、わき目もふらず、なりふりもかまわない、ひたむきのものが、ほんものの芸術には、すべて、ひそんでいるように思われる。
 一つの作品が芸術であるか否かは、この執念というか鬼気というか、自分の生命力を自分の作品につぎこまないではいられない、作者の白己愛が含まれている度合によるものであろう。
 芸術作品は技術だけでは生れ出ては来ない。奇術や魔術のように技術やアイディアが抜群であれば、人の目をごまかせるという種類のものではない。
 技術は拙なくても自分の生命力をつぎこんだ作品を創れる人物なら芸術家なのである。指を折って数えて見たまえ。モヂリアニ、アンリー・ルソー、ポール・クレー、シャガール、マチス、……、みんな不器用で下手な絵かきである。しかし、彼等の作品の中には彼等が生きている。サインはなくても一目で彼等の仕事はよくわかる。彼等は一作一作に自分の生命をつぎこみ、すっかりつぎこんで一生を終わったのだ。しかし、その刻々の生命は、作品の中に、今も確実に生きている。彼等の作品を手にした人は、今も生きている彼等と会話を交わすことができる。こういう作家の生命がこもる作品は、いかに高価でもその価値があろうというものである。作品の中に生き続けるすぐれた作者の生命力は、値ぶみのしようがないではないか。
 こういう、すぐれた資質を持った、一流作家になり得る人物はたくさんいる。実は、芸術家になろうとこころざす人物のすべては、この大作家になり得る資質があるといってよい。
 しかし、実際は、そうならない。ほとんどが腐れはててしまうのが実状である。何故か。
 それは、現代という時代の哀しさもあるのだが、ほとんどの人が打算で芸術の道を選ぶため、打算によって腐れはてて行くのである。
 誰でも、特に若者は、専門技術を少し習得することによって、技法的に芸術を理解することはできるようになるものである。打算的に芸術の道を選んだものは特に進歩が早いかも知れない。慾と二人づれだからである。
 けれども、こうした人物には芸術の奥殿に進み入ることはできない。筆が多少動いたとて、道具が玄人はだしに使えたとて、芸術の神は微笑はおろか一顧さえ与えない。
 初歩の修練を終えて、芸術を生活の道に選ぼうとするものに向かって、芸術の神は冷厳に「物慾を捨てよ」と命じるであろう。
 打算で芸術を選ぶほどの人物は、ここで芸術の神を否定し、冷笑するにちがいない。
 「私の仕事は金になる。私の仕事は人気がある。芸術家は無慾である必要はない。自分の才能で巨万の富を創る人物こそ史上空前の芸術家なのだ」と。
 ああ、しかし、これが打算芸術志向者が腐敗してゆくもとなのだ。青年よ、人生は永い、大志をいだけ。巨万の富が何なのだ。少しばかりのファンが何なのだ、世界中の男も女も君のファンにしてしまえ。
 たった一人の君に戻って、静かに司有と話をしよう。青年よ、君だったら、どんな人物を心から尊敬できるかね。
 巨万の富を持つ人を尊敬しあこがれるのはおそらく、君がちょっとばかり貧乏だからという怒りのせいだろう。金持なんて嫌な奴さ。ふつうの神経じゃ金は持てない。
 慾を捨てちまうのだよ、芸術の時には、自分の作品にのめりこんで他は一切忘れちまうのだよ。一本の線、一つの点、その一点の理想的な色彩、タブローのすみからすみまで連なりおおいかぶさる自分の執念、自分の生命、それを作品にまとめあげることを続けて行って、自分が燃えつきることを考えたら、いいのではなかろうか。
 そんなことをしたら、食っていけない、などと考える奴こそ、人間以下の生きかたしかできない奴なんだ。
 佛教家とかキリスト者とか、自分以外の人間がきめた規定に縛られて、自分の叫びさえ出せない宗教家でさえ、芸術志向者以上の自己超克にはげんでいるではないか。
 天上天下唯我独尊の芸術家志願者よ。飢えつつもただ創れ。創ったものの中に、君自身を透きとおらせて封じこめてしまえ。自分の作品の中だけに、君の永遠の棲家はあるのだ。
 そして、君だけに、芸術の神様にはないしょで、そっと話してあげるのだが、君がもし、打算のすべてを捨てて、澄みきった心身で芸術の道にとけこんで行ったら、死んでもいいと芸術の道で飢餓行を実践するとしたら、そんなすばらしい奴を、誰が見殺しにするもんか。司有がそれは保証する。生命がけで何かを手がける生き方、これは、現代の頭のいい要領屋が一番嫌う生き方なんだが、実は、一番世人に大切にされる、まちがいのない生き方だと、司有は思う。
 芸術の神様にはないしょで、といったのは、こういう助言で安心感を与えることさえ、芸術という道を生きるための、きびしさには邪魔なことだからなんだ。
 しかし、この生きにくい世の中にたった一人、他人のやらない生き方を貫くのは大変だからね、司有の保証だって、考えようでは力になるだろう。無名時代の司有は、そのように歩き続け、今も、生きているんだから。 

 

 

礼儀をとりもどそう

 

 銀河会では、お行儀をきびしくしている。教室に入る時は「先生こんにちは」、帰る時は「先生さようなら」ときちんとすわってあいさつすることにしている。
 何かを学ぶ姿勢の基本は礼儀にあると思っているからである。この必要は最近ますます強く感じられるようになった。
 戦後の教育の中で、戦前とくらべて悪くなった点がいくつかあるが、その最も悪いことは、教師も親も子も無礼になったということであろう。
 親が子に礼儀をしつけなくなったし、教師も教え子に礼儀をやかましく教えなくなった。他家を訪問した時、そこの家の子に敬礼されて恐縮するようなことはなくなったし、学校の廊下をあるいても生徒がおじぎをする学校は珍らしくなった。自分の学校の先生にさえ、生徒がおじぎをすることが少なくなったように思われる。
 七十歳をこえる方々は思いだされるであろう。学校でも自宅でも、子どもの基本姿勢は正座であった。親の話をきく時、先生の話をきく時、姿勢を崩すことは許されなかった。五歳ぐらいになれば、どんな子どもも父母やお客様に対して手をついて正しいおじぎができるようにしつけられていた。
 またおとなたちも、子どもたちの正しい敬礼をうけとめられるだけの毅然とした姿勢を身につけていたように思われる。
 あれは、必要性の薄い虚礼であったのだろうか。
 司有は、はっきり、よいしつけであったと思っている。未熟な猿同然の幼児に人間らしい節度を身につけさせ、人間らしい知恵や情感を受けることへの感謝をあらわす手段を教えてくれた、欠くことのできないしつけであったと思っている。
 現在の家庭や学校に礼儀の意識は薄い。職場にもないといっていい。戦後の誤った民主主義教育の生んだ巨大な社会悪である。
 自由主義とか民主主義というのは、完成された人格と人格とが、相互に相手を尊敬しあう場合にだけ成立する。おたがいが完成された人間どうしの間には、きわめて美しい民主的な人間関係がいつでも存在するであろう。
 しかし教育の世界では、一方が成育させる側であり、一方は未熟である場合が多い。親子であれば、生まれたての西も東もわからないお猿さん以下の存在である子を、親は全身全力をあげて一日も早く人間味のある成人に育てなければならないのである。師弟であれば、師は、たとえば他人の親が育てそこなった不出来な子であろうとも、自分の教え子として社会に迷惑のかからないように育てて、おとなの世界に送りだしてやらなければならないのである。
 だから、親や先生の責任は重い。親や先生はいつも子どもの心を飢えさせないように、大人としての実力や内容をたくわえようとしなければならない。
 司有の父も母もえらかったなと司有は今も思う。司有の父親ぶりなどは親とはいえないと思う。戦後の親どもは司有ほどではないにしても、どうも親らしくなくなつた。
 子どもに対して妙に物わかりがよくてニヤニヤしすぎるのではないか。ぺコぺコしすぎるのではないか。親であるという自信と実力がなくなった証処である。
 昔の中国の柳屯田という人は「父母がその子を養っても教えなければ親らしい愛情がないのだ。教えたとしても厳しくなければやはり愛が足りないのだ」といい、同じく昔の中国の王安石という人は「子を養っても教えようとしなければ父のあやまちであり、教育しても厳しく教育しないのは師の怠惰だ」といっている。また誰でも知っている古いことわざには「獅子はその子等を千仞の谷につきおとし、はいあがって来る子だけを可愛がる」というのがある。
 いずれも教えの中にきびしさを要求していることに注目したい。
 原則的に考えれば親や教師は子どもたちより先に死ぬのである。いつまでもそばについて面倒をみてやるわけにはゆかないのである。とすれば、寸暇を惜しんで子どもを一人前以上の実力を持てるように教育し、社会で一本だちできるようにしてやるのが親や教師のつとめであることに気づくではないか。
 このように教育する親や教師こそ子どもの尊さを真に知っている親や教師なのである。そして、このように教育された子は、自分に親や教師が与えてくれたしつけが、理解できてくるにつれて親や教師に深い感謝を持つようになるのである。
 親や教師と子どもとの間に、心をこめた礼儀のかわしあいが生まれるのは、この段階からである。人間らしい人間のあいだに生まれる相互尊敬の世界がはじまるのである。
 非行児が多いといわれる中学校の子等のことばは汚い。親のことをオヤジ・ババアと呼び教師をセンコウと呼ぶ。これに対して親や教師は叱らない。いや叱れずにニヤニヤしてしまうのである。子どもは精神的に未熟だから猿のように無礼をはたらいてみせるのだが、親や教師が無抵抗だと見るとその上の無礼をしかける。親や教師を面と向って罵倒したり暴力をふるったりする。ところが子どもをここまで放置しておくような親や教師はここで一層あやまちをくりかえす。子どもに対してぺコぺコしてしまうのである。
 子どもにとって大人が自分の前でぺコぺコするのは漫画のようで面白い。猿のような知能だから漫画を面白がるのである。子どもは一層悪くなる。大人は手がつけられない。こうして成人した子は社会では通用しない。人間生活からはみ出した猿人として刑務所にでも収容されるようになるのであろう。
 大人はもっと毅然としよう。子どもたちのお手本になろう。実力のある礼儀正しい、完成された人間ぶりを子どもに示してゆこう。子どもにとって神さま仏さまのような人間になろう。 

 

 

こんにちは、赤ちゃん

 赤ちゃんを観察してみましょう。生まれてすぐお乳をのむことをおぼえます。ふしぎです。あおむけになった姿勢からねがえりをし、ハイハイであとじさりをし、次に前に進みます。おすわりをおぼえます。こんどは立とうとします。何度もころびながら立ち、つかまりあるきをはじめ、歩くことをおぼえ、走れるようにもなります。生まれてから、たった二年ぐらいの間に、これだけのことをやりとげます。赤ちゃんは、大人の教えることばもよくわからないし、本もよめないのに、どうしてこれだけのことができるようになるのでしょう。
 もちろん何度も失敗をし、大人の居ない時などにけがをしたり死んだりすることさえあります。
 それでも赤ちゃんはがんばります。ころんで泣きながら、ぶつかって泣きながら、何べんでもやります。えらいものです。
 さて皆さん。そしてわたくしも考えて見ましょう。わたくしたちは昔、そのえらい赤ちゃんだったのです。
 今では、どうでしょうか。一寸失敗するとがっかりしてやめてしまう。叱られるといやになって投げ出す。少しやって見てできないとやりかたを教えてもらおうとする。自分がほとんどやりもしないから出来ないのに、だめなのは先生や周囲に恵まれないからだと、他人のせいにする……。まことに、きまりのわるいことばかりですね。ひとつ、このへんで、気分を一新して赤ちゃんから出直そうではありませんか。
 ほとんど誰からも教わらずに走ることまで独習する赤ちゃんのような勇気と努力があれば、書道上達なんてわけのないことです。空海や王羲之を追いこすことだって、できるかも知れません。人をたよるからいけないのです。先生にぶらさがるからいけないのです。
 赤ちゃんは、自分と他人をくらべたりしません。立とうとしたら立つことだけに熱中します。だから上達が早いのでしょう。
 わたくしたち大人は、まわりばかり気にしています。少し気になる競争相手が居たりすると仕事が手につきません。空廻りばかりして進歩が止ります。心が乱れたり、神経が異常になったりで退歩することもあります。
 展覧会などを少し続けて見ていると下手になっていく人や悪くなっていく人が目につきます。誰でも皆、以前より上達しているつもりで努力しているのでしょうが、悪くなる人は少なくありません。そして面白いことに、目立って悪くなっている人に作品の感想をきいて見ても、本人はむしろ得意になっていることが多いのに驚かされます。
 私は、「私もその一人なのかも知れない」と思うと共に、人間は大人になっても案外赤ちゃんなのだなあと思います。
 一時的に下手になってもいい、時々悪くなってもいい、それは、たとえば、赤ちゃんがぶつかったり、ころんだりすることに似ています。立ち直ってがんばりましょう。
 それにお習字には危険がありません。むずかしいものを習っても生命に別条はありません。赤ちゃんがすべったりころんだりすることは危険の連続で、大人だったら二、三回で懲りてしまうようなハード・トレーニングです。
 お習字の勉強なんて、赤ちゃんの敢闘精神にくらべれば甘いものです。どうですか。今日から、死ぬかも知れないほどのハード・トレーニングをニコニコ笑いながらやって見ませんか。忽ち上達すると思いますよ。
 八木重吉の詩にこんなのがあります。
       ×   ×   ×   ×
さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
 
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
 
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなにしつっこくよびな

 

 

ある思い出から

 芸術というものはわかりにくいと思っている人が多い。けれども、わからないものは芸術ではないのではないか。
 ほんものの芸術品なら、何も知らない人にもかならず何かの感動を与えるように思えるのである。
 私が小学校一年生のころだったろうか。家を改築するために大工さんが来ていたことがある。或日、遊び先からおやつをねだるつもりで帰って来た私を、その大工さんが呼びとめた。大工さんも三時の休みでお茶を飲んでいた。「坊ちゃん、面白いことをしてみせてあげましょう。みていらっしゃい」。
 大工さんは、かんなを取りあげ、仕事台のそばに立つと、きわめて自然にすいすいと二枚の小さい板をけずりあげ、その一枚に手桶の水をさっと掛けると、二枚の板をぴったり重ね合わせて私に渡した。「さあ、坊ちゃん、この板を離してごらんなさい」。
 私は、ふしぎなおもちゃをもらったような感じで押したり引いたりしながら離そうとしたがどうしても離すことができなかった。
 私は、その時、だんだんくやしくなって、べそをかきそうな顔つきになったかもしれない。大工さんはにこにこしながら私にいった。「坊ちゃんに力がないせいじゃありませんよ。吸いつくように板が削ってあるからなんです。ためしに若い者にもやらせてみましょう」。
 大工さんは、私の手から板を取ると、大工さんが連れてきていた十八歳ぐらいの若い大工さんを呼んだ。「おい、お前、これを離してみろ」。
 若い大工さんは、いろいろ骨を折って離そうとしたが、やはり離すことはできなかった。大工さんは、にっこり笑って板を手に取った。「ふつうに手でひねくったくらいで離れるようじゃ、一人前の削りかたとは言えないからね」。
 大工さんは、ひとりごとのようにつぶやきながら木槌をとりあげるとトンと板の小口を打った。板は離れた。
 「おれの親方はね、水をつけずに板を合わせても離れなかったもんだが、おれは此の年になっても、まだ、あのまねはできねえな」。
 大工さんは、誰にともなく言った。若い大工さんは、こっくりこっくりうなずいていた。
 今思えば、あの時六十歳ぐらいに見えた大工さんは、ほんとうは私にでなく、あの若い大工さんを教育しようとしていたのかとも思う。
 しかし、私は、年月がたつにつれて、この大工さんがなつかしくなる。会って苦労話をききたいと思う。私は、その後、いろいろな技術者に数多く会ったが、あの大工さんのように、自然な仕事ぶりをしながら、素人でも子どもでも目をみはるような鮮やかな仕事をみせてくれた人を知らない。
 芸術とは、建築でも、絵画でも、書でも、音楽でも素人にはとてもできないものであるには違いないが、まずどのような素人にもそのすばらしさがわかるものでなければならないと思う。建築なら使いよくなくてはいけないし、絵画や書や音楽なら技術がしっかりしていてわかりやすく気品のあるものであるべきである。しかも、その上に、普通の人では到達できない不思議な魅力がなければならないと思う。普通人の聞けないものが聞け、普通人が見えないものが見え、普通人が神秘としか考えられない世界を表現できる人を芸術家とよぶのだと思う。
 素人が考えても、下手だったり、醜くかったり、不愉快だったりするものが、芸術であるはずはない。芸術とは超能力を自己開発した神のような人間だけがつくり得る、すばらしくわかりやすいものであるように思われる。

 

 

父母よ、教育界に感激をとりもどせ

 戦後、学校で式典を軽視する傾向が目立っている。しばらく前、学生運動が激しかったころなどは卒業式や入学式など全く行なわれなかったこともある。その頃の過激な学生たちが、現在学校の教壇に立っているためか、卒業式や入学式をはじめとして、運動会や文化祭などを軽視し、反対し、骨抜きにしようとする教師が少なくないようにみえる。私は、こういう教師たちによって、子どもたちの生活から感激性が奪われてゆくような気がしてならない。人間にとって感激性は貴重なエネルギーだ。人は感激によって進歩し、前進する。
 たとえば誕生日、七・五・三などを工夫して、思い出に残るほどの感激を生みだすのは親の責任だ。入学式・卒業式・文化祭・運動会などを通じて子どもたちの心に感激性を高めるのは教師の責任といえるだろう。
 ここでは、教師の責任について書く。
 日本人は話し下手で、演出下手である。しかし、教師は話の専門家、演出の専門家でなくてはならない。少なくとも教師の効果を多面的に発揮するために、進んで文字やことばの洗練を心がけ、一人一人全部ちがう教え子の能力を引き出す演出を工夫しなければ、仕事不熱心といわれても申しひらきはできまい。
 それでも、熱意があり、親心があれば、まだ救える。教師の中には、近来、特に親心のない、熱意のない、子どもを育てようとしない教師がふえてきているようにみえる。「生活のために、教職にかじりつき、退職金や恩給がふえる工夫に熱心なマネービル教師」「狭い政治意識で、たとえば組合の仕事などに熱中し、生徒の世話など投げやりな左巻き教師」など悪徳の横綱格であろうか。両横綱たちの共通点は親心の欠如である。たとえば、自分の教え子に学力をつける工夫など全くしない。父母から質問などされた場合のへりくつのこねかたには政府高官も負けそうである。そして、自分が本来感激性を持たないので、感激性を持たせる教育など強く否定するのも共通点であろうか。特定の者を表彰したり、処罰したりすることなどは、この先生たちに言わせれば大反対である。愛国心、愛校心、郷土愛などという感激性にも反対する。
 こういう先生達の特技は、会議場でのへりくつであり、教員室内での陰性な仲間づくりだ。そして、次第に、この先生たちの主張する、無差別平等教育がひろがってゆく。無差別平等などというと、大変に愛情ぶかい、注意深い親心教育のようにきこえるが、実は大変危い、国民総無気力教育なのだ。働くものも働かないものも同じ、学力のあるものもないものも同じ、善行も悪行も同じとしたら、すぐれたものすべては、その存在を認められなくなり、逆に悪いものやだめなものは野放しとなり、世の中は無感動のまま荒廃してゆくことだろう。
 私は、思い切った差別教育をしようと考えている。勉強する子はほめてあげよう。怠ける子は叱ろう。よい事をしたらほめよう。悪い事をしたら叱ろう。できれば、一人一人の子を、よく観察して、なるべくたくさん良い所をみつけ出してほめてあげよう。ほめるときは、なるべくたくさんの人の前で、はっきりほめて、多くの人にも祝福してもらおう。叱る場合は人の知らないところで、静かに叱られる理由がよくわかって反省してもらえるように叱ろう。
 人は、一人一人顔も心も能力もちがう。能力に限って考えても、実に複雑にちがう。誰にもすばらしい所があり、だめな所がある。一人一人の長所を伸ばし、欠点を抑えるのは、とても大変なことにちがいない。でも教師ならやらなくてはならない。何故なら、教師は親だからである。教え子の親だからである。親らしい心づかいをするのが嫌なら教師をやめるよりしかたがない。教師とは、そういう大変な存在なのだ。
 さてこの大変大切な存在である教職の世界に、無気力教育のひろがってゆく現状を、どうするか。文部科学省の自覚を促すなどは最高の愚策である。文部科学省の無能さは、すでに証明ずみではないか。では、次の手は?
 無気力教育がひろがってゆく原因を考えてみよう。無気力教育を野放しにして来た原因は、父母たちの無気力ではないか。父母たちは、怒ったり、悲しんだりする感激性を、今、とりかえさなければならないのではないか。その怒りや悲しみをふるいおこし、結集すれば、校長をうごかし、教育委員会をうごかしてゆけるはずである。父母たちが怒ったり悲しんだりして、その激情を実行にうつすことは、子どもたちにとっても、よい影響をのこすに違いない。
 戦後、なりゆきにまかせて来た教育は、今、はっきり、幾多の欠陥を見せてきている。そのほとんどは、戦後の大人たちの無気力、無感動から生まれ、育ったのである。
 父母よ、教育界に感激をとりもどせ。

 

  

現代の若者よ!

 いよいよ21世紀。
 私が十代の頃は、日本は戦争のまっただ中であり、敗戦と同時に大学を卒業した。今の日本の様に何でも手に入る時代ではなかったからか、ピカソやマチスなどの芸術運動に憧れ、油彩や彫刻・抽象等書きたいもの、表現したいものがたくさんあった。そして、次々と作品を作り、経済的には苦しかったから、自分で料紙を作ったり、表装をしたりもした。
 現代の若者よ!もっともっと燃える様な情熱を持って作品を作ろう。君達は平和な豊かな時代に生きている。書は自分の歴史でもある。一日一日を大事に自分の歴史を綴って欲しいものである。

 

 

お父さんとは

 お金について書く。芸術とか教育とか人類文化を向上させることについても、お金とは無縁ではない。いや、むしろ大いにお金は必要である。それ故に、私のお金に対する考えかたを書く。
 私は、家庭においてお父さんの立場にある。そして、銀河会や現代書道研究所においても、教え子をおあずかりしているのであるから教え親であり、お父さんであるべきではないかと思っている。お父さんの仕事はいろいろあるが、最も大きな仕事の一つは、生活をささえるために、外からお金をかせいでくるという仕事ではないかと思う。外からと特に強調したのは、少しわかりにくいかも知れないから、政治にたとえて話をしてみることにする。
 一国の総理大臣は、その国のお父さんである。自分の国を豊かにするためには、総理大臣は、上手に国際交流をしながら、よその国に感謝されながらお金をかせいできて自分の国を豊かにしなければならない。戦後の総理大臣の中で最もスケールの大きい仕事をした総理大臣は吉田茂であったと思うが、この吉田茂が大きな仕事ができた最大の原因は、海外、特にアメリカに数多くの友人を持っていたからであると私は考えている。
 以前、中曾根総理が、かなり積極的に海外諸国を訪問し、友好の実をあげようと努力していることは賛成である。昔と違って、世界各国の中に、とびぬけた経済大国などというものは、現在はない。アメリカ・イギリス・ロシア・中国その他、みな経済的に苦しい。できれば、お財布のひもをしっかり結んで、少しでもお金の流出を防ごうとしているのが現状である。その中から、お金を引き出し、流通させ、自分の国の中にも導入させるための方法は、国際的な友好親善しかない。
 お金というものは、動かすものである。貯蓄という精神は大切であるが、大きくお金を動かす気持で貯蓄するのでなければ、単なる死蔵であり、お金は生きない。国際的に考えても、お金を取り入れることばかり考えて、よその国にも利潤を与えることを考えない国があるとしたら、その国は結局経済的に国際関係からしめ出されて、滅びざるをえないだろう。
 飛躍するが、近代の総理大臣の中で、福田・大平・鈴木各氏は、海外ではほとんど無名に近い。国際的な活動が国内事情のためにできなかったのかも知れない。田中角栄氏は、国際活動では有能であったと私は評価している。第一、最も単純に考えても、海外からお金を持つてきたのは田中角栄氏ぐらいではあるまいか。間題の五億円は国際的に見れば些少な金額であり、日米両国間の航空機をめぐるお金の動きかたを計算に入れれば、少なすぎるといってもいい。田中さんは、もっとたくさんの手数料を取って世界諸国とお金の流通をはかり、日本の国に手数料を持ってくることのできる総理大臣であったのではないかという気がしている。
 自由経済社会においては、お金を動かせる能力は美徳であり、手数料を得ることも悪徳ではない。田中角栄氏は、手数料を取ったことで、必要以上に、悪人にされている気の毒なお父さんだと私は考えている。海外からお金を持ってきてくれるお父さんがいないと、日本のようにダイヤモンドも石油も出ない国の運営は、どこかでお金をつくり出さなければならないので、国税庁と警察庁がその任にあたらざるをえない。海外からその収入が期待できない以上、国民をしめあげて、お金をしぼり取るより方法がない。税務署員も鬼ではないし、警察の旦那も血も涙もある。しかし、政府にお金がなくなると、国民からお金を取れという要請が強くなる。
 一般国民に対する政府の最近の税金攻勢や交通取締の罰金攻勢を考えて見るがいい。弱い者ほどしめあげる悪い姿勢は、政府当局が大物ぞろいでないからだ。小物だから弱い者いじめをしたがるのだ。現在の日本列島は、政治家という名の親分が、国家公務員という名の子分をせきたてて、やっと生活している国民から税金や罰金という名のショバ代をしぼりあげている恐怖世界に近づいている。
 いいお父さんよ、あらわれよ。外からお金を持つてきて、家の中を豊かにして、子どもたちを大きく育てて、ニコニコ笑っているお父さんはどこかにいないか。家の外でもあの人のおかげでと感謝され、家の中ではニコニコしているだけで尊敬されるお父さんはどこかにいないか。そのようなお父さんに、私はなりたい。私のできることは、よい作品をつくって理解して下さる人に喜んで買っていただき、そのお金で教え子に喜ばれる熱心な先生にお礼をし、よい教え子を育てあげたいということである。 その意味では、私は、まだ、だめなお父さんである。思っている半分も子どもにつくせない、だめなお父さんである。よく勉強し力をつけてきたから、その意味では、ほかのお父さんよりましなのかも知れない。これからは、更によいお父さんになれると確実な約束ができるように思っている。

 

 

親御さん、よくきけよ

 以前のことであるが、私の住む朝霞の町が、すっかり有名になった。中学生の素行が悪化して、親も先生も手がつけられなくなったと、新聞に報道されたからである。実際に報道されたのは○中だがほんとうは□中の方がもっと悪い状態だという噂も流れて、これから中学進学をむかえる小学生の家庭まで、動揺していた。
 こういう出来事の場合、いちばん悪いのは誰かといえば、私は絶対に親が悪いと思う。生まれてから幼稚園や学校という集団社会に入るまでは、親の教育する部分がほとんどであるからだ。
 赤ちゃんが生まれる。それは祝福すべきことに違いない。どこの家庭でも、「この子は神様や仏様が授けて下さった国宝のような子だ」と思いたいに違いない。そこまではよい。しかし一人の赤ちゃんが、国宝になるためには、そのままではなれない。
 お父さんやお母さんには、恵まれた赤ちゃんではあるけれども、物心がつくまでの幼児は本能だけのチンパンジー以下の生き物であることもきびしく認識していただきたいのである。更に赤ん坊というこの生き物に人間らしさを注ぎ込むのが親の責任であることも深く考えていただきたいのである。きびしく叱ることも、お尻をたたくことも大切である。すぐれた人間に育てるためにはすぐれた躾がなければならない。すぐれた躾をするためには、親がすぐれた親にならなければならない。すぐれた親になる自信がなくても、愛児が生まれたのである。わが子のためにも、親は努力しなければなるまい。
 小さい子を躾るのはつらいことが多い。愛児のお尻をたたく時、自分の手が野球のグローブのように大きくて醜い感じがして、また叱っている自分が鬼のような気がして泣きたくなるのが、親心であろうと思う。それでもわが子が悪い時には叱らなければいけない。よいことと悪いこととの区別を教えきれずに自分の家から外に送り出してはいけない。人間の子は三、四歳ぐらいから友だちと遊ぶようになる。その頃までに、なるべくお行儀を躾ていただきたいのである。
 日本の両親は、本来教育熱心な傾向がある。だから、子どもの教育には十分気をつけていると錯覚している親御さんは少なくない。けれども、その教育は、知能教育にかたよってはいないだろうか。
 「幼稚園や学校で皆さんにごめいわくをかけないように自分のことぐらいはできるようにしたいと思いまして」等と、きわめて美しい言いまわしをしながら、本心は「他の子なんてわかろうとわからなかろうと知ったことではない。うちの子だけは先生の教えてくれることをわからせなくては」とばかり、数や文字を必死におぼえさせることで子を教育していると思っている親御さんは少なくはあるまい。こういう自分勝手な親が自分勝手な子を育てあげてしまうのである。
 私の小学生のころ、夏休みにラジオ体操に行こうとする私に、母は短い箒を渡した。
 「まだ二十分くらい早いから、お向かいのお家と両方のお家の前を掃いてから行きなさい。そして夏休み中続けてごらんなさい」というのである。私は続けはしたが、ふくれっ面で十日ぐらい掃除の意味がわからなかった。しかし、その頃から、時々近所のおばさんたちがほめてくれるようになり、二十日ぐらいしたころ、せまい町内の、あちらにもこちらにも掃除をする子がふえて、みるみるきれいになるのがわかるようになった。その頃母が「よく続くわね。人はみんなお世話になりあいながら生きているのだから、ご恩返しのつもりで、ていねいに掃くのよ」といってくれたことを思いだす。
 残念なことに、そのうち夏休みが終わって、三日坊主ではなかったが、三十日坊主ぐらいで私の掃除はおしまいになってしまったように思う。けれども、奉仕とか謝恩とかいう意識は、はっきり私の心に残った。今も、こうした母の教えを受けたことが、私という人間の大きな支えとなっているように思われる。
 人は自分だけでは生きてゆくことはむずかしい。学校に入っても、会社に入っても、自分勝手な人間は、すぐに締め出されてしまう。反面、仲間や友人を大切にし、積極的にプラスの方向に進もうと努力する人物は、次第に多くの人々から支持されるようになる。
 自分の子を人の上に立つ人物や恵まれた一生を送れる人物にしたかったら、親は全力をあげて、奉仕の精神や感謝の精神を行動であらわせるようにつとめ、それを自分の子にも教えるべきであろうと思う。「人につくすなんて損だわ。馬鹿みたい」という考えをお持ちの親御さんは、やがて自分の子どもたちにも後ろを向かれるに違いない。なぜなら、「親につくすなんて損だわ、馬鹿みたい」と身をもって教えているからである。

 

 

しごけ ―日本の良き父上母上―

 お父さんやお母さんにおたずねします。おたくのお子さんは、紐や風呂敷が結べますか。雑巾や手拭いを使いこなすことができますか。はたきや箒や塵取りの扱い方はどうでしょう。
 ちゃんと教育のゆきとどいたお家の方はびっくりなさるかも知れませんが、何人かの小学校の先生にうかがったところでは、こういう日常の生活用品を使うしつけができていない子の方が多くなっているそうです。先生がたのお話では、「もしかするとお父さんやお母さんもだめなんじゃないでしようか」ということでした。
 掃除・洗濯・炊事……。このような生活上必要な仕事を下等な仕事のように考えるくせが日本にはまだまだ残っています。下等だとは考えないまでも、骨の折れる、汚い、外見のよくない仕事だから、「できれば大切な子どもにはやらせたくない」と考えている親御さんが多いようです。「苦労は大人だけでいい、子どもだけは幸福にのびのびと生活させてやりたい」というわけです。
 さて、そのように親たちに護られた子どもが大きくなったらどうなるでしょう。人の世話どころか自分のこともろくにできない困った大人になるにきまっています。今は、小中学生どころか、高校生や大学生の中にも、ナイフで鉛筆を削ることができなかったり、靴の紐が結べなかったりする人が多いのです。
 一部のお父さんやお母さんは言われるでしょう。「ちゃんとした学校を出て、人の上に立つところでおつとめをすれば、身のまわりのことや、掃除やお茶くみのような下等な仕事はしなくてもすむはずです」と。実は、こういう単純な考えかたが、戦後の家庭、学校、社会を改悪してしまったのです。
 まず、家庭では、子が親の仕事を理解しないばかりか、親の苦労をけいべつするようにさえなりました。そういう子どもの態度は学校では通用しません。学校も一つの地域社会ですから、共同生活に必要な奉仕の心とか、愛や感謝を家庭でしつけられていない子どもは孤立してしまうのです。孤立は反感に結びつき、高校・大学と進むにつれて自意識が強くなる結果、周囲を見下げるようにさえなります。過激な活動で社会をさわがせる学生や、サーキット族、ヒッピーなどと呼ばれる若者の多くは、恵まれすぎた家庭の出身者であることを考えてみてください。
 そして更に、社会人になった時、社会のきびしさにうちのめされてしまうでしょう。一流の学校を卒業していようと、親が実力者であろうと、社会入りをした新人は社会人見習だし、社会人手伝いです。自分のことは人の手をかりず、人のいやがることも積極的にやり、周囲の人の世話をするくらいでなければ人の上には立てません。一流校を出たことを鼻にかけたり、親の七光りによりかかったりしている若者は、もしかすると血統書つきの動物のように人々の注目をうけるかも知れませんが、本人に社会的な能力がなければ、さっさとほうり出されてしまいます。無能な人間なんて犬や猫より愛嬌がありませんものね。
 子どもがかわいいなら、まず、社会性を持たせましょう。それには、身のまわりの家庭生活から、親が教えこむ必要があります。朝晩のふとんの上げおろしから、掃除をまず教えましょう。電気掃除機というものは、はたきの使いかた、箒の使いかたができるようにならないと上手には使えないものです。つまり掃除とはどういうことなのかを精神的に理解するにはきわめて不便なものなのです。雑巾を洗ったり、しぼったり、拭き掃除が終わったら、きれいによごれをおとして干しておくことも教えましょう。幸田露伴は娘の文に「雑巾とは黒くよごれているものだと思うのはまちがいだ」と教えています。便所の掃除、どぶの掃除、そのほか、汚いと人が顔をそむける仕事などは、しっかり教えこみましょう。もちろん、親も手をぬいてはいけません。そして一人でやれば速いからなどと言わずに、一しょに教えながらやりましょう。そして、汚いところを美しくしておく喜びを教えましょう。
 炊事も食事のあとかたづけも、男の子女の子に関係なく教えましょう。献立や、それに伴う買物は、できれば家族みんなで希望を出し、予算を立て一緒にでかけていって品物のえらびかたを実地に学び家計簿のつけかたまで勉強させましょう。庭の草取り一つでも、家中が休みの日、植物の名前を図鑑でしらべながら、みんなでやるようにすれば、混んだ乗物で汚い遊園地へ往復するよりは意義があります。こうして、日常の生活の中で注意深くする習慣を身につけた子は、学校でも注意深く、集団の中で大事にされる子になるでしょう。
 勉強もしないのに良くできる、気立ての良い、うらやましいような子は、実はこうして育つのです。ガリ勉だけさせても良い子はできません。勉強で机の上だけの知識は持てても、社会生活と切り離された子は、行動と知識を結びつけることが、なかなかできないのです。
 さあ、かわいい子に、苦労をさせましょう。

 

 

たかが子どもだ ―日本の良き父上母上に―

 子どもの作品指導をしている時の私は、やさしく見えるらしい。「子どもがお好きなのですね」と買いかぶってくださる方が多い。私は良い子は好きだが誰でも好きというわけにはいかない。買いかぶられては困るので一言私の子どもに対する感想を書く。
  戦後、私は中学校や高校の教師をつとめた。小学校の子どもの学習を見たこともあった。当時はアメリカ教育がいろいろと幅をきかせ、アメリカ的教育といえば何でも積極的に取り入れられた時代であった。「子どもの神聖な心の花園に、大人が土足で踏み込むのはまちがっています」式の、子ども尊重主義が多かったように思う。日本の大人は戦争に敗れ、子どもの教育法でへこまされ、小さくなって子どもの前に頭が上がらなくなった。一方子どもは何でもディスカッション方式で、口先三寸で勝ちを占める訓練を施され、実行力はなくても論理は上手、責任のがれは名人級という大人に育っていったのである。呆れはてた我が子の成長ぶりに怒る気力もなくなった大人たちは、次の段階で逆に子どもたちに教えられ、次第に親子ぐるみ、相互に汚染しあい、無責任で低俗な日本人になりつつあるのが現状だといったら、果たして諸君は怒るだろうか。怒るならまだ見込みがある。汚染しきった世代は死に絶えるまで待つとして、生きのいい、純真な子どもたちに期待して、子ども教育から再出発しよう。日本人としての再出発である。
  子どもは未熟だということをまず、大人たちは認識しよう。生まれたてから、乳児期までは、少なくともチンバンジー同然なのだ。我が子可愛さのあまり、人間らしさを与える教育を怠ると、次の幼児期既に恐るべき将来性を発揮する。自分の家と公共の場の区別を、いくら教えても守らなくなる。電車の中で歌いわめき、吊皮にぶらさがり、駆けまわる。座席に靴のままかけあがる。呆れたことに、こんな我が子の姿をニヤニヤ笑って喜んでいる親がいる。親までチンパンである。公園でも公会堂でも学校でも、もはや遠慮はない。自分の我をとおすために、友だちに迷惑がかかっても一切関知しない。やがて、こういう連中が、モーターバイクのマフラーをはずし、爆音勇ましく団地や住宅地をかけずりまわり、あるいはスタジオはもとより、防音設備も全くない日本長屋の一角で、音感のおかしなチンパン仲間をかきあつめて、電気ギターのフルコンサートを連日連夜。これもまだ良いほうで、人がさわぐのが面白さに放火したり、善良なおとなしい通行人に危害を加えたり、ゲバルトゴッコで殺人傷害をおこしながら警察で知らぬ存ぜぬと大嘘をついたりすることに相成るのである。
 乳児教育、幼児教育に力を注がれよ。生まれたての子どもは、何といってもたかが子どもなのだ。そのままでは未熟な生物にしかすぎない。これを手塩にかけ(今の親にわかるだろうか。古き良き日本語なのだが)、磨きに磨いて、人間らしく育てあげるのが親のつとめ、大人のつとめなのである。
 子どもは皆国の宝だと誰かがいったが、私も同感だ。しかし子どもの扱いかたほどむずかしいものはない。育てかたでは国宝になるが、同時に国賊にもなるのである。
 それでは、何を教えたら良いだろうか。戦後の日本に一番なくなってしまったものを、一番先に親が教えれば良いのだ。ぎりぎりに限定して、愛と責任だけを徹底的に教えこんでも、日本は復活できる。世界中の友と前進して行ける。現状ではだめになる。祖国愛のない人間、人類愛のない人間がどんどん増えている。無責任のほうも相当なものだ。無責任な政治家、無責任な経済人がひきおこした、ここ数年の間の世情不安を思われるがいい。このままでは、人間同士の信頼さえなくなる。
 子どもの教育は、親や、子どもを囲む大人たちがまずやるべきだ。アメリカ方式はアメリカの子どもに、ロシア方式はソビエロシアの子どもに適用すれば良い。この貧乏な、人を信じやすい、民度の低い日本を担うものは日本の子どもしかいないのだ。その子どもたちが可愛そうなら、親たちは、せめて自分たちの力で、親の責任を果たし、親の本当の愛を子どもに植えつけてゆくべきではないかと思うのだ。甘やかさずに日本の子をつくっていただきたいと思うのだ。職場の合理化で、仕事は楽になり収入も増えたお父上は、レクリエーションの名のもとにゴルフや麻雀、競馬、競輪、パチンコに奮励努力、たまに在宅してもテレビに釘づけ、子ども教育は奥方まかせという、無責任なところがおありではなかろうか。電気器機や食品のインスタント化でお暇のできた御母堂は、子どもが学校ヘ行っている間を利用してアルバイト。はじめは家族の下着程度といっているうちに欲が出て、いつか子どもは鍵っ子、ごみバケツや回覧板も上の空となったころは、愛とは遠くなりにけりと相成るかも。
 まことに恐ろしい時代、その時代だから、政治家のせいや経済人のせいにしたいのもさることながら、一番にまず身近なところ、親と子の対話を復活して、家庭ぐるみ良い子どもの教育環境とすることをお願いしたいのである。

 

 

飢餓感

 毎年続けて十一年も個展を開いて来た。それも、少ない時でも一回に百点以上は作品発表している。
「よく書くな」と仲間の書家たちに呆れた顔をされるけれど、私から言わせれば、何で他の書家先生は作品を作ったり発表したりしないのかと不思議に思う。
 私が書くのは飢餓感にせきたてられて書くのだ。書きたい材料は山のようにあるのに私は一人しかいないからだ。ほとんど一枚仕上げ、それでも五百字を越す小楷ものは、何日もかかって書き続けるから一月以上もかかることもある。その間に書きたいものは並行して書く。
 恩師や先輩に恵まれていたから、漢文・和文・欧文と材料に不自由はない。原始人の図象にも現代建築や現代彫塑にも好奇心を持つから表現にも不足はない、よいものやすぐれたものは皆大好きである。
 但し、絶対に自分の目と心によって選ぶ。万葉の名歌でも駄作と思うものは書かないし、良寛や熊谷守一などのイミテーションが簡単にできるほど生命燃焼の少ないものは断乎として頭をさげない。 私には残った生命は少ないのだ。それにくらべて、やりたい仕事は山のようにあるのだ。一日三時間平均の睡眠で書作を続けることもある。それでも静かに計算してみたら年間三百六十五日として、一日平均五時間ぐらいしか書作時間はないことがわかった。睡眠と食事、交通時間、友だちと飲んだり、展覧会につきあったり、本や資料に目を通したり、勤め先に時間の切り売りをしたり、家族が病気をしたり、一生を通じてならして見たら純粋に書作できる時間は一日平均二時間、年間七百時間ぐらいがいい線ではあるまいか。
 そうしたら、司有、おまえは、おまえの残された時間で何を書くのか。いいかげんなものは書けないではないか。と思わざるを得ない。
 私は筆を取れば作品ができるというような書家ではない。さがし求めた素材を大切に大切に心をこめて書きこんでゆきたい。可能な限り、何回も書き直しをしたくない。ただ一度の最も感動が高まった時の機会を、できれば生かして作品に結晶させたい。
 生まれてから今までに、三十五回も引越しをした、それに比例して、数多いさまざまな人生体験を重ねた。その時々の思い出も多く、数多くの文字や言葉にも接している。
 それを書きたい、それを書こう。それを書かずにいられるか、私の作品群はこうして次々に書かれ、そして残ってきた。
 不思議と思われるかもしれないが、ある種の人たちには、私の作品の中に封じこめられた私の過去の日々が伝わるものらしい。「この激しさが好きだ」「この暗さの。甲の光が好きだ」「この作品には叫びがある」等と的確に言いあてられることが多い。特に色彩を伴った作品の中で、何故、始めて私の作品を見てくれた人にも、そういうことが伝わるのか。
 考えてみれば、不思議でも何でもない。私の飢餓感が作品にあふれているからだ。全身の神経を張りつめて、その素材を表現しつくさなければおさまらない飢餓感に満ちているからだ。
 私は最高に感動を表現したい作品には色彩や立体を試みる。いいかえれば色彩作品や立体作品は飢餓感の結晶ともいえよう。
 芸術の世界における飢餓感は、食欲を満たすためには手段を選ばないというような、みすぼらしいものではない。自分がそれを得ることによって清められ高められるもの以外は絶対に手を出さないという潔癖性に満ちたものである。それ以外のものは餓死しても口にしない強い意志に支えられたものである。
 昭和五十七年九月、銀座四丁目、日本最高の目貫通りに、私の色彩作品「怒涛」「氷壁」二点が展示された。金色まばゆい『和光』のショーケースの中で、私の飢餓感を表明する二点の作品は、好意・好奇・無視・嫌悪、さまざまの無数の目を受けた。二作は、しかし、一つの反撥電話も受けることなく、八日間を銀座街頭に立ち続けた。
 第三者からは、私の飢餓感が一つ満たされたように思えたかもしれない。しかし現在、更に強烈な飢餓感に燃えている。過去よりも、もっと大きく、未開の書の世界が私に見えている。この未開に向かって、私は更に激しい阿修羅となろう。

 

 

他流試合

 展覧会は、書の修行方法の一つであろう。私の知人に、展覧会に批判的で、日展、毎日展などの腐敗を説き、だから自分は他流試合はやらないといって門人を集めた社中展でお山の大将になっている人がいる。一人修行も大切、他流を拒否する精神も大切であるが、よほどの資料がない限り、反省や新しい工夫が次第に生まれなくなり、独断と偏見のために小さく固まってしまいやすいのではないか。
 武術などでうっかり他流試合に臨めば生命の安全は保障しがたい。他派の激突は敵愾心や憎しみを生み、勝つためには手段を選ばないことにもなり、負ければ復讐心が湧くのが当然である。これを防ぐために、現代では、さまざまのルールを設け、禁手使用を反則負けとするなど生命安全を第一に考えているが、おかげで外見的な判定で試合が進行することになり、武術の発達とは方向の違うものになった。本来の武の世界は防具も反則規定もなく、敵愾心や憎しみが一方に発生した時に試合が始まり、一方が死を迎えた時に試合が終わるというものであったはずである。
 従って武人は何時いかなる人物の攻撃を受けるかわからない立場にあり、「寝ていて鮮やかに体をかわした」と講談で語られることが嘘でないほど、行住坐臥すきをつくらないことを修行したのである。
 このような生命をかけた武術者の修行にくらべれば、書の修行は甘い。いくら書いても生命に別条はないし、日展・毎日展に出品しても殺されることはない。
 しかし、武術者の修行と書の修行を別のものと考えてはいけないのではないか。一点一画のミスタッチも許さぬ、きびしい自己批判が必要なのではないか。私は色紙一枚を書いても十回は致命傷を受ける。自分の理想とわずかに違う筆のミスが十回はある。見る人は気づかずに、むしろほめてくれることさえあるが、私の理想から見てミスはミスである。筆を剣に代えて考えれば命にかかわるすきを十ヵ所見せたということになる。私が剣客ならば、既に数えきれぬほど何回も殺されていたに違いない。
 それでも私は展覧会という戦いの場に臨む。それが現代のような生命安全の世では僅かに残った修行の実験場であるからである。一人修行より、確実に意味の深い試錬の場であるからである。
 私がNHKアナウンサーとして、行住坐臥、言葉の修行に入ったとき、言葉による人の反応というものの恐ろしさを身にしみて感じた。文字の反応とは方向の違った恐ろしさである。ちょうどその頃、「オール読物」などという雑誌を通じて、故五味康祐さんの剣豪小説が次々と発表された。啓発される所の大変多い、武の名人たちの世界が書かれていた。いま、その一部をひろってみる。
  お前は居合の妙旨を悟った。太刀を抜けば必らず勝つ。併し、勝つは一度じゃ。人間、己れ以上の技があると知るとかならずそれに打ち克つ工夫を人も凝らす。それゆえ、一度見せた祕太刀は、如何なる至藝であれいつかは敗れると覺悟せねばならぬ。兵法者が祕術を見せるには、それゆえ生涯に一度でよい。いつ、誰の前に披露するかじゃ。明後日の試合など捨てよとは敢て云わぬ。判斷はお前の自由じゃ。その判斷がお前の身を立てもし、滅ぼしもしよう。わしは、「山を張る」という言葉がただあるが一度の祕太刀は、詮は山を張るようなものと申しておく。一生に一度、武士なら大山を張るべきであろう――これが一つ。次に、技の出來るに従って高慢になるのは、人間やむをえない。それをふせぐ手段は一つよりない。禮儀をまもることである。禮儀は、美徳ではない。それは用心を意味する。禮儀深い男とは、用心ぶかい者のこと――この二つを、忘れずに覺えておけ。武宗はそういい残して旅立った。
(「櫻を斬る」の一節。夢想天流の会得者桑名紀八郎に師の武宗が残した言葉)
 亦、こうも言った。――世上の剣者は臆病を蔑む、兎角膽の大小を謂う。愚かなことである。臆病こそ人智のさかしらを超えた本然の姿である。臆病は護身の本能に據る。故に臆病に徹せよ。終始臆病であることをこそ、剣の修業と心得よ。
 更にこうも言った。自分が、今日の心境に達したのも臆病心を守ったからである。元來、余は人並以上の臆病者であった。心拙き頃は、世人の如く余も臆病を慚じた。しかし、一日、眼に飛來する礫に或る人の思わず瞼を閉ずるを見て、翻然悟るところがあった、これぞ正然の術であると。飛び來る石を暇あれば躱す。なくば及ばずとも瞼を閉じる――この、及ばぬ瞬きに余は剣の極意を見たのである。爾来、これに類した本能の防禦を余は限りなく見た。守ろうとする意志すらない、これらは間髪の氣合であった。故に、意志以前の防禦の境に余は心を置いたのである。
(「喪」松前哲郎太に師の幻雲斎が教えた言葉)
 剣豪を語るのに、一部の拾い読みでは、泉下の五味氏にも申しわけない。どちらも新潮文庫の「秘剣・柳生連也斎」に入っているので、全文をよまれることをおすすめする。私の修行姿勢の一端がわかって頂けるであろう。

 

 

展覧会とは何か

 出品した展覧会を見にも来ない人がある。入選したらそれでいいというのではない。どのような入選をしたかが問題なのである。多数の作品の中で、自分の作品がどう見えるかが問題なのであり、自分以外の作品と見くらべながら、更に自分が向上するにはどうしたらよいかを工夫することが展覧会の意義ではないかと思う。
 展覧会は戦いの場であるといってもよい。さまざまの戦いがそこには展開される。正攻法・奇襲法・人海戦術・物量お色気などの搦手攻撃・泣きおとし戦術など、多彩にわたるものである。卑怯などといってはいられない。はっきりしていることは勝ち残ったものが英雄であり、敗退したものは負け犬に違いないのである。
 私は小学校一年生から展覧会に出品し、今も多くの展覧会に出品し続けている。最近は審査員とか代表とか招待で出品することが多いので、落選の心配はないが、戦いの場に出ることには変わりはない。
 私の恩師たちは早死にしたので、いわゆる七光り族とは縁がない。頭のおさえ手はいないかわりに一匹狼のような戦いにならざるを得ない。一人で作戦を立て、一人で戦う。
 私の場合は、お金も色気もないので搦手戦術は使う余地がない。技術的に基本に忠実な正攻法と、誰にも虚をつかれない清潔な世渡りとを武器として戦って来た。
 一番愚かしい戦法なのに、これが次第に社会の支持という形で力になって来た。思えば社会で一番強い武器は信用である。
 経済力だって信用の前には小さいものである。経済力抜群の政治家や経済人でも信用がなくなったら、どんな苦労をするか、何人もの実例をご存知であろう。
 私には「なかなかしっかりしたていねいな字を書く」とか、「人の足をひっぱらない」とか、「汚い工作は一切しない」とかの信用が、多数の人人による支持という形で、積み重ねられている。
 けれども、人間的な信用だけでは書の世界では通用しない。勝負の世界なのであるから、勝ち抜いて行かなければ、支持者だって喜んで支持をしてはくれない。
 「この作家の作品は確実に価値が崩れない」と思われなければ、正直いって作品の本当の買手はつかない。
 「この指導者は、人格的にも技術的にも、かなり長期にわたって変質しない」という確かな手応えを集まる人に与え得なければ、受講者たちは集まっては来ない。
 書作家は、だからいつまでも油断はできない。書という一見平和な仕事に従事してはいても、戦国時代に身をおくのと変わらない心構えを忘れるわけにはゆかないのである。
 書作家は、当然のことながら「書」を本業とする。そして、「書」とは、古くからいわれているように人格をうつしだす世界だとするならば、書家の毎日は、素通しのガラスの中に居るようなものだといえるだろう。
 書作家は、心も生活も、そのすべてが、日常生活と展覧会活動の両面から、世間の人々に丸見えの状況にある。
 それゆえ、世間の人は、書作家のすべてを実によく見抜いている。書道ブームといわれるだけに学習希望者も多数にのぼるが、その一人一人の希望者が、かなり敏感に、よい書作家をさがすようになりつつある。
 こうした状況がエスカレートすれば、現在のように芸術院会員になれば大丈夫、日展会員になれば繁昌する。毎日展審査員なら一安心などという、サラリーマンのような評価は崩れてゆくであろう。
 書作家は、展覧会でよい作品を発表し、受賞などとは別の支持者を集めながら、武田信玄の如く重厚に、上杉謙信の如く機動性豊かに、織田信長の如く新鮮に、秀吉の如く多彩に、家康の如く息の長い戦闘力を、合わせ備えるような人生修業を積みあげる必要があると思う。
 私の幼稚だった戦前、日本列島にはたくさんの名人が居た。今では書く人が少なくなった楷書などは、どこの会場に行っても恐ろしいほど上手に書く人がいた。
 泰東・東方・美術協会・三楽・興亜・大日本、幼い日日、次々に展覧会に入って、楷書ばかり見てあるいた。上手な驚くような作品にふれると、私のいやらしさがはじまる。二日でも三日でも通い続けてあら探しをするのである。神様のような作品も、必ず目に慣れると、欠点がいくつもみつかる。そうしては安心して帰宅し、自分こそは欠点のない楷書を書こうと決意するのだった。
 十二歳ごろから十七歳ごろまでこれを続け、十七歳の時、泰東展成人かな部に初出品した時からは、他の人と自分の作品との痛烈な比較がはじまった。その折の作品は賞の少なかった当時、上位から数えて十番以内の褒状第三席で初日の頃は得意になっていたが、日毎のあら探しで終わりの頃にはボロボロに見え、それでも見続けて自分で自分にくやしがったことを思い出す。
 展覧会は利用価値の多い、大切な場所である。利用法を工夫されたい。

 

 

燃えること

 生きるということは自らを燃焼させて前進させることである。人間として生まれた以上、生きようと努めなければならない。生きるためには自身を燃焼させなければならない。燃えつきて死に果てるまで。
 同じ生きるなら、他人に動かされるより、自分の望むように生きたらいいと思う。何故かわからないうちに自分の身体と生命を得てしまったのだから、自分で満足するように、たった一つの身体と生命を燃えつきるまで生かしきったらいいと思う。そして、生きるため燃えるためには、当然のことだが、エネルギーがなくてはならない。人間の持つべきエネルギーとは何か。
 人間が、動物でありながら他の動物と異なるところは、知性や感性や理性を努力して磨きあげ、向上に向かって工夫するところにあるように思われる。そのために人類は教育・宗教・政治・科学などを育成し、常に向上をめざして来た。
 この向上をめざす意欲や努力が人間らしいエネルギーの持ちかたであろうと思う。
 昨日の自分を越え、現在の自分を越えて、よりよい人格を自分が身につけようとする意欲を持ち、努力しようと努めてみよう。一人一人のそのような向上前進が、人間全体を向上前進させるだろう。
 私たちの学んでいる書の世界は、幸いにも、豊富な古典に恵まれている。それら古典から現代までの歴史をたどってみると、私たちが、将来の人々のために、何をしなければならないかが、自然とわかってくる。
 たとえば、古典の書の美は、現代の人たちの創り出す書の美よりすぐれた要素は沢山に含有しているが、そのままでは現代に適合しない部分がある。文字の字形を見ても古めかしいし、大変読みにくい。としたら、その古めかしさ、読みにくさは工夫を加えて改善し、古典の書の持つ線条の健康さ、古人の深い文字や文章への理解等はこれを生かして、古典をうけつぐに恥じない、「正しく」「わかりやすく」「心のこもった」二十一世紀の後輩たちに自信を持ってバトンタッチできるような書を、創り出そうとする人物が、あらわれてきてもよさそうである。
 平成の今日、「書」に関心を持つものは、もっと未来の文字に向けて、自分を燃焼させようと考えるべきではないかと思うのである。
 現代の書家とその弟子たちは、古典書道の世界の住みよさに、すっかり安住し、遊びほうけているように思われる。
 本来、日本人は、民族の体質からいえば、言語型民族であり、文字というものに、極めて粗雑な意識しか持ち合わせていない。
 遠い昔、漢字伝来の頃から現在に至るまで、文字とは日本人にとって、便利な生活道具でしかなかった感さえある。
 文字型民族である中国民族が自国の先祖が生み育てた漢字を手塩にかけてはぐくみ護り、畏れ敬ってきた歴史にくらべると、日本人は漢字やかなを道具として便宜的に使っているだけで、いつまでたっても文字のすばらしさを本質的に見きわめたり、その恐ろしさを身にしみて知ろうとはしないのである。
  近代日本に「書道」という、生活アクセサリーが流行しているのも、決して「文字」や「書」を大切にしなければならないと日本民族が考えはじめたからではなく、むしろ「文字」や「書」を大衆的な遊芸やお稽古事の世界にひきおろして、遊びの道具や、教養という名のアクセサリーとして利用しているにほかならないのである。
 本当は、「書道」を学ぼうと志すほどの者は、何となく、「文字」や「書」が人類の叡智の極限の世界に属する恐ろしいものらしいということは感じているのである。そこでおずおずと極めて謙虚な姿勢で「書道」を学びはじめる。しかし、残念なことに「書道界」には、本格的な「書」や「文字」を追究している指導者は殆どなく、「書道」入門者はいつしか自分の希望していた世界とは違った「遊芸書道界」や「大衆書道界」にひきずりこまれてしまうのである。
 現在、「書道界」で少し有名になってきた人々にきいてみるがいい。誰もが、あこがれて入った「書道」の世界と現実自分の生きている「書道」の世界が違うものだと答えるだろう。或いは、そのようなことを感じるほどの反省力もなくなって、どっぷりと書道社交界にひたりこみ、着物えらびや紙幣の計算にあけくれしながら、見るも俗悪な作品を生産し続けているのではあるまいか。
 ここまで間違ってしまった「書道界」にあって、屈原のように孤高の生きかたを貫くものは中島司有であり、現代書道研究所であり、銀河会である。何故なら、私には二十一世紀の子たちに「正しく」「わかりやすく」「心のこもった」文字を贈りとどけようとする理想がある。「現代書道研究所」や「銀河会」では真剣な古典追究や科学的な文字造型に向けての実験が続けられている。そして私や心ある多くの指導者や会員には、人類の明日に役立つ文字を追究しようとする情熱があり、燃焼の継続がある。
 燃焼の源泉であるエネルギーには事欠かない。豊富な古典と歴史があり、われわれはその学びかたも知っており、現に学びつつある。
 われらは熱度の高い燃焼を更に続けよう。

 

 

山の案内人

 書道の先生とは手本を書くものだと思いこんでいる指導者が多い。未熟な先生、我の強い先生、営業的な先生、つまり駄目な先生ほど手本をむやみに書く。弟子が多すぎると、さすがに手が廻らなくなってコピーなどを活用するが、とにかく手本を書きたがる。
 その手本を書くひまに古典の臨書などを自分がやったら、ずいぶん腕があがるし良い先生になれると思うのだが、そうは考えにくいものらしい。当然のことだが、だんだん速書きになり、自分の癖が固まって来て、いわゆる〇〇風とか□□流などといわれるような次元の低い書家になってゆく。
 世の中はふしぎなもので、そういうお流儀書家の書をならいたがる人々もあり、結構有名になって大家ぶった顔もできるから、次元の低い先生は生涯反省することなく幸福な一生を終わることが多い。
 けれども、少しまじめに「良い文字を教えるにはどうしたらよいか」と考えたら、手本などは、おそろしくてなかなか書けないはずである。
「司有よ、お前は銀河の手本を書いているではないか」と反間されそうである。本当は古典から集字したりして良心的な手本を作りたいのであるが、新漢字とそれに調和するかなが古典から集めることは至難であるために、やむを得ず、なるべく平静な正しい字形を書こうと心がけている。運筆も古典にかよう蔵鋒・中鋒を基盤として書いている。幸いに癖の少ない良い書とほめて下さる向きが多いが、それでもやはりはずかしい。絶えず反省を重ねて、古典学習に移行しやすい正しく良いものを書こうと願っている。それにしても、やはり、できれば、手本は書かずにすめば、それにこしたことはない。
 世の中には、現代人が遠く及ばない、すぐれた古典が、たくさん残っている。
 それを、指導者は学習者に、もっと学ばせる必要がある。専門書店の店頭で見かけるものだけでも一生習えるだけの分量はある。それを学習者に紹介するのが指導者の仕事であるといってもいい。
 私に弟子が何人いるかときく人がいる。「一人もいません」と答える。不思議そうな顔をするから、「私は書道山脈のふもとに居る山の案内人です」と答えることにしている。
 案内人らしく山についていくらかは知っている。登山者にある程度の道案内もするし助言もする。けれども山に登ることは登山者自身に自力で登ってもらうことにしている。
 登山者を背中に負って案内人が登るのだったら登山者自身は楽ではあっても山に登り得た実感はないに違いない。疲れ切って何度もやめたくなりながらも、降りるのは登るよりはるかに危いから、やむを得ず、必死で登ることになり、その結果、ようやく頂上にたどりつくから、喜びが大きいのである。
 書道山脈の山々は転落死の危険はないが、なかなか意地悪である。拓本は欠けた所が多いし、真蹟本でも虫食いがあったり破損で文字が見えなくなったりしている。そこで学習者は依頼心をおこす。指導者に、「ここはどうしたらいいでしょう」と教えを求めるのである。私の所にもききにくる。
 その場合釈文などを自分で見たり、書体の字典などを自分で引いて一応の努力をしてくる人は見込みがあるが、そういう人はまず少ない。「自分で考えてやりなさい」というのが最も正しい助言だと思うが、そうするとやめてしまう人が多いから、やむを得ず、私は、しらベる参考書を教えたり、しらべる方法を教えたりする。
 本当は、わからない所はあけておいて先に学習を進めてみるのがいい。あとから自然にわかってくる事が多いのである。
 一つの原本は全臨するのがいい。九成宮醴泉銘を例にとれば、二玄社の書跡名品叢刊などには全拓の写真がはじめに出ているから、全休が何行何字あるかを先ずしらべ、次に一字一字が何センチ四方に入っているかをしらべ、原本と同寸法の全体の下敷をつくるのである。下敷でなく、書く用紙に罫を入れれば更によい。罫を引くのは2Bぐらいの鉛筆で軽く引けばよいが、これを引きおわるだけで一仕事である。けれども寸法を正確にして引きおわって見ると、其の紙はもはや普通の紙ではなく、世界でたった一枚の貴重な紙になった事に学習者は気づくに違いない。
 次は一つ一つの桝目の中に原本と同じ大きさで一字一字書いてゆく。二玄社の本でいえば毎ページをコピーで取って、一行一行折りながら、書く桝目の左にならべて置いて、寸法、角度、太さなどを、原本そっくりに注意深く、臨書してゆくのである。速度は徹底的にゆっくり、正確なほど良い。学習は科学的であるほど良い。
 「原本と同じ大きさなどはむずかしい。初心者には大きく習わせる方がいい」という声がかかりそうである。何故か。何故わざわざ手本の大きさとは別の大きさに学習するのか。非科学的ではないか。同じ大きさに習っても狂いがちなのに、拡大したら誤差が大きくなって、しかも、どこが狂っているのかわからなくなるではないか。原本と同じ大きさに習えば、書き終えたものを手本と重ねてみれば、どこが違っているか誰にでもわかるだろう。
 こうして習うと、困ったことに指導者より学習者の方が科学的で正確な学習をするために、指導者が負けてしまう場合が出てくる。指導者だって正確無比な臨書ができるわけではなく、小・中学生だって先生より不正確とは限らない。テレビタレントの真似などやらせれば、大人は子どもにかなわないのである。
 臨書は初心者にもやらせていい。やらせるべきである。その場合、指導者は臨書手本など書いてはいけない。誤差だらけにきまっているからである。「古典はむずかしいから一寸手ほどきを」などといっているのは間違った親心である。ちょうど子どもには良いごちそうをたべるのはむずかしいから、とばかりに折角のごちそうを指導者が先にたべて、咀嚼したものを学習者に口うつしするようなものである。指導者は、おいしいものをよく知っていて、そのおいしいものをどしどし学習者に与えるだけでいい。指導者はそのために、いつもおいしいものを見つけ出して、学習者に与える用意をしておかなければならない。誤差だらけの手本など書いているひまはないはずである。 

 

 

一には御手をならひ給え

 何故現代人の文字がだんだん下手になり、習字をしても効果があがらないのかを考えているうちに、次の「枕草子」の一節を思い出した。
 「一には御手をならひ給へ。つぎには琴の御琴を、人よりことにひきまさらんとおぼせ。さては古今の歌二十巻をみなうかべ(暗記〉させ給ふを御学問にはせさせ給へ。」
 村上天皇の女御であった藤原芳子に、父の左大臣師尹が授けた教訓である。
「何より先にお習字をなさるがよろしい。次には、御琴を人よりとりわけすぐれて弾けるように心がけなされ。それから、古今集二十巻の歌全部を暗記されることを御学間になさることです」という意味である。父が自分の娘に教えるにしては言葉がていねいなのは、娘ではあるが天皇の女御になることが内定してからの教訓であろうか。
 ところで、この教育は、当時の貴族や宮仕えの人々の生活を考えに入れてみないと、わかりにくい所がある。
 第一に、なぜ習字が大切なのか。よく書道の先生が口にする「字を上手にかけなければいけない」等という言葉では答えにはならないのである。もう一歩深く考えてみよう。
 平安時代の貴族たちは、現代の人たちのように気安く交際するわけにはいかなかったのである。特に男女のけじめ、身分のけじめはきびしかった。
 男性と女性、身分の高い人と低い人との間では、直接言葉を交わす機会など、ほとんどなかったのである。
 言葉にできない部分は、文書によるよりしかたがなかった。その文書も、文章や歌や詩によって教養を先方に伝え得るほどすぐれた内容と、それにふさわしい見事な筆蹟とがそろったものでなければならなかった。
 男も女も、手紙によって相手の人物・教養・性格をおしはかり、配偶者を定めなければならなかった。出世を考える若者も、仕事上の書類や意見具申の書状がすぐれたものである必要があった。
 いわば筆蹟は、人々が生活してゆく上で、ほとんど唯一絶対の手段だったのである。現代の日本人には到底考えられない言語不通の世界が平安及びそれ以前の上流社会であった。
 ここの館の奥にはすばらしい姫君が住んでいると聞いても、若い貴公子たちは直接会うことはおろか、御簾や部屋をへだてて話をすることもできなかった。
 すぐれた筆蹟で心のこもった内容の書状を書いて送り届ける以外に、男性も女性も心を通わせ合うことはできなかったのである。
 奈良・平安の時代には、従って、すぐれた筆蹟を持たないものは、男は公務員の試験に合格することもできず、女性は夫を得ることも宮仕えに出ることもできなかったといえよう。いわば、すぐれた筆蹟を身につけることが、世渡りの唯一の道であったのである。
 師尹の教育のはじめの言菜「一には」を、「いちには」と読む説と「ひとつには」と読む説とがある。私は「いちには」でなくてはならないと考えている。当時の状況から文字の学習は「何よりもまず」とか「一番たいせつなことは」という意味でなくてはならないはずだと思うからである。
「つぎには琴の御琴を……」は、明らかに「つぎ」でよろしい。音楽の好きな人は怒るかも知れないが、文字と音楽とどちらが人間生活の中で必要度が高いか考えればすぐわかることである。文化社会の中において、人間は、文字と言葉がなければ一日も生活ができないが、音楽や絵画などはなければなくてもしんぼうできるのではないか。
 もっとも、言葉による交際が許されない状況では、音楽によって演奏者の心を伝えることも大切である。きく者に「何という美しい響のある琴の音だろう」と感動させることも可能だからである。そこで心得のある男は笛をたずさえて外に出る。すばらしい琴の音をきけばそれに合わせて笛を吹く。その笛の音が姫君の心に感動を与えることができれば、姫君づきの老女が出てきて、手紙を受けとってくれる可能性も生まれるのである。
 不自由ではあるが、奥床しい教養が文字や音によって確かめられた時代、その時代に日本人は最も美しく品格ある文字や音楽を身につけていたのである。
 現代の社会環境には、もう、このきびしさはない。ないから文字は堕落する。音楽も堕落する。誤字だらけの手紙や、ミスタッチだらけの音楽練習が街に氾濫する。
 こんな状況は、世の中が悪いせいだとして放っておいてよいか。よくはない。これだけ進んだ現代文明の中では、はずかしさを知ることも深い教養を持つことも、文化人にとって義務となる。
 はずかしい筆蹟を人前にさらさないようにしよう。みっともない演奏を人にきかせないようにしよう。そうしないためのきびしい鍛錬を人知れずに自分だけで積むことが、誇りある現代の文化人教養なのである。

 

 

「書」の学習は芸術的より科学的に

 今回は高野切古今集第一種という名山を、どのように味わいながら登ったらよいかを、山の案内人として書くことにする。
 この名山に登ろうとしてすべったりころんだりの体験が、私にはあり、それだからこそこの玲瓏とした名山を今もあこがれて止まず、かなを学ぶ人には、「なるべく早い機会に、高野切古今集第一種を学びなさい」とおすすめすることにしている。
 高野切古今集第一種は、妙ないいかたかもしれないがかなの楷書である。そして、題字などに少しく漢字を含んでいるが、それら漢字も一見行書体や草書体を見せているようでいながら、その実、楷書的で妥協のない澄み切ったこまやかな短い線が弾力性豊かに結び合わされたような線がすみずみにまで用いられている。
 それ故、この古典を、現代のかな作家のように速度をあげて流麗に書こうとすると、どことなくすべってしまって、つかまえにくい結果となる。
 私の体験では、書写速度をできるだけ遅くして、隋代の墓誌銘や唐代の写経でも勉強するつもりで起筆から終筆まできめこまかいみつめかたをする方が、この高野切第一種の重厚なさわやかさをつかまえやすい感じがするのである。
 私は、古典の学習にあたって、その古典の書かれた時代、書いた人物、その古典が何故書かれたか等を考えるくせがある。高野切第一種でいえば、恐らく筆者は藤原行成であろうということ、従って時代は、平安末期よりも、院政期よりも、もっと大らかな、御堂関白治政下ののどかな時代であったであろうこと、その時代に、第一種藤原行成、第二種延幹法師、第三種藤原定頼の三名人が筆をそろえて、この世紀の名宝を書きあげたであろうことが夢よりも鮮やかに思いに浮かぶのである。時代も教養を貴ぶ重い時代であり、代表的な筆者は四納言の一人といわれた藤原行成であり、書きあげる歌集も国宝的な尊重をうけるものであろうと考えた場合、軽々しくとりかかっても学び取れるものではないのは当然である。
 手本を一枚一枚ばらばらに剥がし、一行一行間隔と高さを合わせた下敷に添って、一字一行、原作そっくりに学びとって行く。「臨書などと考えないで下さい。あなたの目と手と心で、この原作をもう一つ復元再生するのです。」という助言が自然に出る。意臨だの形臨だのという言葉を造った人は、よほど粗雑な人だったに違いないと思う。
 日本人は、文字を生み育てた民族ではない。従って文字を書くことについても、中国や韓国の手ほどきで育ったのである。
 悪いことに、日本人は、この恩師の教えを十分習得しないうちに、独学をはじめてしまった。戦国時代で速度を身につけ、江戸時代に要領のよさをおぼえた日本人は、速くて美しく叙情性豊かな文字を書くことを身につけたが、中国や韓国の恩師たちから見れば、軽薄で装飾性過剰な似而非文字を身につけてしまった観があるのである。
 むやみに芸術がることも日本民族の駄目な所だ。文字が、書く人の人格をくまなく写し出すおそろしいものであり、しかも筆者がいない所では筆者の思ってもいないことを語り出し、決して筆者の弁護などしてくれないものであることを思えば、日本人は文字をもっと恐れて学び、謙虚に身につけることを心がけるべきであろうと思う。
 学ぶべきは、中国では唐代まで、日本では藤原中期まで。そのころまでは、文字はまぎれもなく、豊饒な時間の中で醸し出された、紳士淑女の教養の結晶であったのだ。
 この貴い文化を、現代人は、古代に身を運んで学ばなければならない。将来に役立つ大切な文化は、新しいとか古いとかいうことではない。真物であるかどうかということである。その真物の文字は、古代にある。
 現代の日本人は、古代の、誠実な時代の貴重な、紳士淑女たちの教養が結晶した文字群を訪ねて、真剣に再学習をしなければならない。
 日本人はことば型民族として、一応の文化水準を築いている。しかし、文字型民族の持つ確かさがない。是非とも文字型の鍛錬を重ねないと、本格的な文化は築けないように思う。
 しかし、日本人にとって文字の学習ほど苦手なものはない。文字は流動的な感性だけの学習では学びとれないものであるからだ。
 文字を学びとるには中国的な文字型民族の学習法を取り入れるのが一番早い。中国人は実に精密な科学的な方法で文字を学ぶ。
 私は少年時から、現物再現主義ともいうべき学書法を続けてきたが、数次に及ぶ中華人民共和国・大韓民国・中華民国訪問によっても、科学的学書法の必要を痛感するに至った。
 日本における書の学習法は多くまちがっている。今までは芸術的な模索で書が学ばれたが、この方法は危い。
 書は科学的に学べば、素直に学び取れるものなのである。注意深く、よい古典を学び、正しい文字、理解しやすい文字、心の通った文字を書くことを身につけ、二十一世紀の人々にバトンタッチてゆきたいものである。

 

 

現代の文字を書こう

 NHKテレビの教育番組を見ていて不思議に思うのは、いかにも古めかしい、現代人とは縁のなさそうな、書体の指導を行っていることだ。
 もっとも番組の種類は婦人番組で趣味の講座ということであるから、女性が忙しい日常生活から解放されたひとときを懐古的な文字に親しむことで、ストレス解消ということになるのかも知れない。 けれども同じ時間を習字にあてるなら、もっと現代に通じる書を教えるべきではないかと思う。特にNHKのテレビ番組だから一層その感を深くする。
 NHKが多年標準語の普及につくした功績は大きい。全国の学校教育と相まって、日本人同士のことばのかわしあいがわかりやすくまちがいがなくなり、積極的になってきたことが感じられる。
 NHKの標準語普及に対しては、「方言の美しさや貴さを無視するもの」とか、「個性的なことばづかいを否定するもの」とかの批判も少なからず起ったし、現在でもアナウンサーや番組制作者に対する用語批判はあとを断たないけれども、標準語が普及しゆきわたるにつれて、失なわれてゆく方言や古い用語の採集や研究も行われるようになり、人々がことばに対する関心を深めた結果、新鮮な個性的なことばづかいも生まれてきて、私は標準語運動についてはまずまずの評価をしている。
 そのNHKのテレビ番組を通して、そろそろ標準字教育をやってもらいたいような気がしている。そのNHKテレビの書道教室が、特別に習わなければ読めない草書や変体がな、あるいは誤読のもとにもなる難読体の四字連綿・五字連綿などを、どうして教えようとするのだろうか。標準語を普及してきたNHKが、文字教育に関する限り、何等の主張も持っていないらしいことに不思議の感をいだかざるを得ないのである。
 しかし、思えば、NHKのせいではないのであろう。文字や書の専門家と思われている書道家たちの責任に帰せられるべきものには違いない。
 NHKが書道の学習番組を作ろうとして、専門家たちをさがした場合、古ぼけた文字や現代に通用しない文字しか書けない専門家しかみつからなかったためなのである。
 ふつう、専門家とは、一般人が想像もつかないほどの知識や技術をたくわえていて、永遠性と新鮮性を仕事の上で発揮できる人のことではないかと思う。
 書道家たちは近来、よく古典を勉強する。印刷術の発展や出版機構の拡大につれて、よい古典の手本が入手しやすくもなったし、書道展の指導者たちが古典尊重主義をとっているためもあろう。そこまではいいのだが、それだけで止まっていては書の専門家とはいえない。少なくとも現代の書の専門家とはいえない。これだけでは過去の書道の愛好者に過ぎず、骨董いじりとあまり変わりはないからである。
 書道家が現代の専門家であるためには、古典で学んだ精神や技法で、現代の文字を書けなければならない。それも専門的な字体も知らない現代人にも、続けた字を読みたがらない現代人にも、小学生や中学生にもわかる現代の文字を書けなければならないと思う。「そんなやさしい字体では古典の精神や技法を生かす方法もない」と書道家たちはいうかも知れない。けれども、それができなければその書道家は現代の文字を書く資格はなく、現代の書道家とはいえないのである。
 思えば、芸術院会員、日展審査員、毎日展、読売展の審査員、大書道団体の役員たち、そろいもそろって、何と古めかしい顔がそろっていることであろう。その古めかしい人々が現代の書の世界を律し、これから伸びようとする新しい人たちを裁く。何とおそろしくも不可思議なことが公然と行われていることだろう。
 こういう現実の中で、私の書の歩みがはっきり異質であり、正道をゆくものであることを私は自負するし、私の主張は現代書道研究所の会員諸賢には理解して頂けることと思う。
 NHKの標準語普及の歩みが力強い指針である。正しく、わかりやすく、心の通う、現代の文字を書く運動をはじめよう。

 

 

おそろしい世界

 書道がブームだといわれ、一見さかんになりはじめたころから、実のところ、書の評価や見かたが大きく乱れはじめてきたような気がする。
  書を見る方法は、ほかの芸術作品とかわりはない。美しくて、独創性があって、その作品を通して作者が主張したいことを観るものの心に話しかけてくるような作品が、すぐれた作品なのだ。
 ところが、このような作品をつくることは容易なことではない。何万人に一人というような資質とか、普通人には到底なしとげられそうもない努力とかが必要なのである。
 事実、昔は、文学者とか画家とかを希望することはきちがい沙汰であった。書家になろうなどと考えるものは殆どなかった。それほど苦難にみちた、将来の見通しのつかない道が芸術の道だったのである。
 このきびしさは、ほんとうは現在でも少しもかわっていないと思う。芸術という神秘の世界にふみこめる人物は、普通人にない超能力をそなえた、いわば超人であるからだ。
 ただ、この超人は、ウルトラマンとか、仮面ライダーのように、誰が見てもすぐそれとわかるような外見をもつものではない。
 一見馬鹿のように見えたり、裏長屋にすむ婆さんのようであったり、乞食のようだったり、ほらふきみたいだったり、つまり、世間どこにもいる変り者のようにしか見えないのである。
 それに超能力といったって、いわゆる神童とか天才とか誰にもわかる性質のものだけではない。老境に入って死ぬまぎわに強烈な光を放つ人もいれば、親類縁者も見向きもしなかった放浪者の句稿が死後無数の愛好者を集めたりすることもあるのだ。超能力者の一部には自分が超能力をそなえていることを知っている人物も居るかもしれないが、大部分の超能力者は自分を小さな非力な人間と思いこみ、人一倍の苦闘を続けているような気がする。
 ところで、芸術という世界は、このように超人が超能力を発揮してつくり出す神秘性の強い世界だけに、古くから貴族や富豪たちに援護をうけてきたし、現代でも、政治家・財界人・知識階級者などの支持をうけている。ひとたび、そのような支持者たちの間で評価が確定すると、その瞬間から、長屋のオバハンは女史となり、よれよれのヒッピーが星の王子さまのようなイメージ・チェンジとなる。しかも、芸術の支持者となるその時代の実力者とか指導者とか見られている人たちが、一人一人見れば狭い領域での成功者というだけで、芸術という神秘界のことなどまるでわかっていないから面白い。そして、その面白い部分を見ぬいた悪賢い連中が、芸術家然として、芸術支持者たちの前にあらわれ、次々と拍手喝采をうけて、ひとかどの芸術家らしく待遇されるから不思議である。そして、そのようなことのおこる反面、社会の一面では、ほんものの芸術家たちが借金を申しこんでことわられたり、野たれ死にをしたり、気ちがいとよばれたりしていることがしばしばあるから、これも不思議な話である。
 芸術の中でも、一番わけがわからないのが書道の世界である。そして、多くの人の意見でも、書道というのは見かたがわからないということをよく耳にする。それは、この世界に偽者が入りこみやすいからだ。
 中国でも日本でも、昔から偽者がもてはやされた例は少なくないが、それでも現代よりは書の見かたは確立していた。
 それは、「人格識見の卓越した大人物の書こそ、真の書である」という見かたである。
 今では、この物差がなくなってしまった。いや、実のところ、こういう物差ではかられると都合のわるい大偽者たちが、権力と圧力にものをいわせて、「古い考えかたをよそう」という理由のもとに、古くからの正論を封じてしまったのである。
 現在書道界で先生と呼ばれる人たちには、字も読めないし、詩や歌も意味がわからないという人が無数にいる。文字や文章の教養がまるで無いのだ。それでも、有名な先生について、二十年か三十年続けているうちに、先生格になる。なかには大先生格になる。そしておそろしいことに審査員という位置に進み、他人を評価する権力をもつようになるのである。教養がなく、自分の流儀の書以外は、まるで理解できない審査員が、他人を評価する、そのおそろしさを考えてみていただきたい。日展でも、毎日展でも、その他の全国展でも、審査員たちの作品の質の低下が、大きな話題になりつつある。
 さて、私はこの現状に対して、どのように考えたらよいのだろうか。私の考えは、今も昔もかわらない。
 書を学ぶものは、文字やことばを深く理解しなければならない。そして文字やことばの集合体である、文章とか、詩歌とか、談話とかを深く理解しなければならないと思う。そして努力を重ねて理解するようになったら、更に努力して、その文字やことば、詩歌や談話を、書として表現することによって、原型よりも、もっとわかりやすく味わい深くしてゆくことが、書家としてのつとめであろうと思う。
 書家とは何か。私は、だんだんつきつめて考えてきた結果、書とは、文字やことばを的確に、目に見得るかたちで、造型することに違いないと考えるようになった。
 深い教養から生まれた文字やことばは人をうごかす。けれども書家は、その文字やことばを、原型を損じないようにしながら、書作品という型にまとめることによって、一層わかりやすく感動的なものにできればした方がよいのである。
 それには、本格的な教養が必要である。書家とは、もしかしたら、あらゆる芸術家以上の教養が必要かも知れない。一見、白い紙に黒い墨でかくだけの単純な作業ではあるが、実は単純こそ最も恐ろしい世界にちがいないからである。

 

 

創作書などあり得ない

「創作」ということばをよく耳にするが、『書』の世界に「創作」ということがどこまで許されるのか考えることがよくある。漢字でいえば、漢字が創り出されてから今日まで三千年以上の歴史がある。その間、さまざまの人が文字の字形や書きかたを工夫し、私たちはその恩恵によって今日漢字を学んだり書いたりすることができるようになった。
 文字に対して「上手だ」とか「美しい」とかの評価が成り立つのは、この歴史の中で無数の人たちが、さまざまな字を書き、その結果を比較することができるからなのだ。
 今日、『書』を学ぶには、お手本が必要だといわれる。手本などを学ばなくとも自由に書けばよさそうなものだが、困ったことに字はそれを使って意思を通じあう人たち相互の共通記号なのだ。個人個人の好みで自由に形を変えられたら共通記号の価値はなくなってしまう。そこで字体が正しく、字形のととのった、多くの人たちに支持される文字をお手本にえらび、その字体や字形を学ぶことになるのである。お手本の中でも昔から多くの人々がえらびぬいて学んだ、古典の名作は特にすばらしい。そこで古典を学べということが『書』の世界では特にきびしく、求められるのである。
 たしかに、古典の名作といわれるものは、あらゆる点においてすばらしい。
 書道家の中でも、古典をよく学んだ人と古典を学ばずに才能だけで書いている人とでは、気品とか風格とか作品の持つ説得力というような点で大きな違いがあるように感じられる。何故か。 文字のように、永い歳月にわたって人間の生活に深いつながりのあるものには、多くの人々によって工夫された生活の智恵が反映している。例えば王羲之の筆蹟とそれ以前の筆蹟とを見くらべると、王羲之の筆蹟は字体も正しく字形もととのい、読みやすくて品格がある。書聖とよばれるにふさわしい天才であると感服せざるを得ないが、その王羲之もやはり彼の時代から見れば古典の鍾uや張芝の書に目を通し、物足りない所を工夫した結果、彼の字を創り出したに違いない。
 従って、王羲之はたしかに古今未曾有の天才であり書聖であろうけれども、もし、王羲之に向かって「あなたは書の道で前人未踏の名人です。あなたの作品はすべて創作芸術ですね」と話しかけたら、王羲之は即座に、「いや私の筆蹟は創作でも芸術でもありません。すべて書の歴史を築いてきた無数の人々の文字生活の智恵に学んだだけです」と答えるような気がするのである。
 深く思えば、私たちの書く文字は、一点一画、自分だけで創り出したものなどあり得ないのではないか。ここは父に似ている、ここは母に影響されている、ここは小学校の先生のおかげ、というように、私たちの書く文字のすみずみまで、多くの先人たちの影が宿っていると私には思える。
 それでは、書には創作はあり得ないのか。私はあり得ないと断言する。例えば抽象的な、いわゆる前衛的な文字性のないものでも多くの人たちの影響がひそんでいる。人間の本性の中には、文字やことばのような公共の意思伝達手段を正しく使おうという意識と、自由自在に変えてみたいという意識が共存しているからである。
 私は今、「創作する」とか「芸術する」とかの意識を全くすててしまっている。文字を書く者の姿勢として、今までも今後も、無数の人々のおかげで字が書けるのだと考えれば、創作することや芸術することという意識を持つことが、たいへん不遜なことであると思えるからである。
 私ができることは、今後もひろく深く心をこめて無数の古典を学び続け、古典の中の「あ」の一字でも、さまざまの古典の美が重なりあい焦点が定められた末の一点一画を集めて、二十一世紀の人たちにも歓迎されるような、品格の高い、字体も字形も正しい、新鮮で読みやすい文字を工夫することである。
 それにつけても思う。
 最近、「創作書」とか「現代書」とかを主張する人々の『書』がいかに姿卑しく粗雑で品格に欠けていることを。
 また思う、「伝統書」を主張する人々が、実は、ほんのわずかな好みの古典をまぜ合せて模倣し、古典に似て古典ではなく、独創でなく借りものであり、現代人が書いているにしては新鮮さがなくてどことなくオジンくさくオバンくさく、全く現代から遊離していることを。
 そしてごく少数の「創作書の現状打破」や「伝統書の現状打破」を叫ぶ良識派も、現状改革に急なあまりに『書』の歴史的学習から浮き上り枝葉の新鮮さや意外性を求めて、『書』の本質から遠ざかってゆくように見えるのは悲しむべきことである。
 書人にとって、今、大切なことは、新しいことでも古いことでもない、本当のものを追求することである。
 そして心すべきは、文字やことばのように人間生活にとって不可欠なものは、絶えず変貌しているということである。書人は、古めかしい趣味としての書に終始せず、二十一世紀の人にも親しまれる文字を、自ら歴史的に学び得た、磨きぬかれた点や線や空間処理で、表現することを工夫すべきであろう。
 文字の表現は、歴史の中に生きる私たちの一人一人が、心をこめて工夫し、よりよいもの、時代に適したものに改良してゆくべきものである。従って、本来、文字は、進化すべきものであろう。それが現代は、どう見ても昔より劣っているのは何故か。文字を手がけるものが、昔より知能も技術も劣っているからである。文字のおそろしさを本当は知らないからである。文字をおもちゃにしすぎるからである。

 

 

六 芸

 人が文字を書くのだという、当然のことがわからない時代になっているように思われる。よい文字を書きたかったら、自分自身をよい人間に磨きあげなければならない。
 私は教員という名の白墨労働者であるけれども、精神的には貴族でありたいと願い、精神的貴族らしくなるように歩み続けてきた。
 精神的貴族という言葉を中国では「君子」という言葉であらわしている。君子というと温和な文化人といった感じがする言葉だが、なかなか、そのような単純なものではない。尋常一様のことで君子などになれるものではない。
 君子は、六芸に通じなけばれならないのである。六芸とは礼・楽・射・御・書・数の六つをいう。そして、これがまた一つ一つ深遠な世界なのである。
 礼とは、単なる礼儀作法を身につけていることではない。君子が礼を求める本当の意味は、自分が礼儀をつくすことによって自分の周辺に礼を行きわたらせ、その礼の世界がひろがっていって此の世界全体が礼をもとに動きだすことを理想にしているのである。
 楽というのも単に音楽を演奏できるとか鑑賞できるとかをさしているのではない。楽という言葉に象徴されるよい音・よいリズム・よい音程・よい音の調和に対して洗練された意識をもち、それをもとに此の人間世界をよい音・よいリズム・よい音の調和で満たすことを理想としているのである。
 射とはやはり単なる射撃術のことではあるまい。射撃の極致はねらった所にまちがいなく矢や弾丸が的中して失射のないことであろうが、このようにすべての事を適確に把握して処理を誤ることのないことが射という言葉の理想なのであろう。人心を正しく見抜くことも射であり、政治家が正しい施策を施行することも射であるはずである。
 次の御という言葉も狭義では馬を乗りこなすことであるが、六芸の中での意味は、世の中の交通や流通の原理を把握することではなかろうか。御がわかれば世の中を自在に動かすこともできるであろう。
 書というのも文字・文章・書籍・書法など、およそ文字や文章につながるすべてのことへの理解を含めているのであろう。文字や文章を書くことも、読むことも、味わうこともできるということはやはり超能力が必要であろう。
 最後に出てくる数という言葉も、この世の中を数の画から理解し処理する能力をいうのであろう。単に数字に強いというだけでなく、比例や配分の感覚に誤りがなく、人間関係に良いバランスをいつも心がける人のことなどをさすのであろう。
 こうした六芸をすべて身につけている人間などはなかなかみつからないに違いない。そして六芸に通じるなどはほとんど不可能であるに違いない。けれども全く不可能ともいいきれない。大志をいだいて一生を生きぬこうとする人々は、六芸に通じることを一生の念願としてもいいではないか。
 もし、その願いをいだいて努力をかさねて修行し、遂に六芸に通じるならば、その人物こそ君子であり、精神的貴族である。
 この君子こそ、精神的貴族こそ、ほんとうの意味の「書」をかく資格を持つ人なのだと私は思う。
 現代はにせものばかりの時代だとよくいわれる。こうした現代にあって、自分だけはほんものの人間になりたいと願う人物はほとんどいないのだろうか。
 私はそう思わない。「書」というおそろしい世界を学び取ろうとする人たちこそは一人一人ほんものの人間になることを願ってもいるだろうし、ほんものの人間ならほんものの書がかけるというすじみちも理解してくださるだろうと思っている。六芸をきわめて君子となり、ほんものの書をかこうではないか。

 

 

書とは何か

 書とは、端的にいえば、「文字を書くこと」あるいは「書かれた文字」のことです。
 従って目的によって、実用的な書、教育的な書、精神修養的な書、芸術的な書などがあり、心がまえや技術に違いがあるようです。
  ここでは、芸術的な方向から、書をとりあげてみることにしましょう。
 芸術の世界を分類してみますと、
文章芸術 小説・詩歌・戯曲・評論・随想・書など
言語芸術 演劇・朗読・能・声楽・書など 
音響芸術 音楽(器楽・声楽)・放送など
舞踊芸術 舞踊・演劇など
映像芸術 写真・映画・テレビジョンなど
造型芸術 A、自然・反自然の事物対象の造型絵画・彫塑・工芸・建築・生花など
       B、文字・文章・書かれたことばの造型――書
       C、心理現象を対象とする造型絵画・彫塑・工芸・書・生花など
となるでしょうか。
 書は、造型芸術に属します。けれども、造型芸術仲間の絵画・彫塑などとは全く違う特徴を持っています。ことばや考えをはっきり鑑賞者に伝えることができるという点で書は文章芸術や言語芸術も兼ねているのです。
 書の素材あるいは対象が、文字・文章・書いたことばであることは、その作品の制作者にとって、何とすばらしいことでしょう。
 自分の主張したいことや鑑賞者に感じてもらいたいことを、明確に表現できるという点では、書ほど適切な芸術はありません。その意味では絵画も彫塑も不自由な芸術です。絵画も彫塑も、声や言葉を表現できません。動かないパントマイムのように、ある一瞬の感動を造型して、鑑賞者の理解を待つだけのもどかしい芸術です。「そこがいいのだ」という芸術家もありますけれども、何やら、もどかしさへの居直りのようです。悲しんで描いた絵を楽しい絵だなどと受けとられたなら、立つ瀬がないではありませんか。喪った子の玩具を描いた場合など……。
 モナリザは何で微笑しているか謎であるといわれてきました。しかし、モナリザのいいたいことを、レオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザにいわせたかったことを、ききとれないことはもどかしいとは思いませんか。ロダンの「カレーの市民」は、その史実が語り伝えられているから一層よく理解できますけれども、突然、歴史が断絶したところで出土したりすれば、単なる意味不明の群像の傑作と評価されるに止まるでしょう。
 書は、その内容の読解が可能であれば、制作者と鑑賞者との間に解釈のずれが生じない、適確無比なすぐれた造型芸術です。
 ただ、現在までの書芸術家といわれる人たちは、このすばらしい書の世界の機能の十分の一も生かしていません。
〇書家の作品が読みにくいことは定評があります。書家は自ら読みにくい文字を書くことによって鑑賞者との心の交流を遮断しているのです。書は書家だけのものでなく万人のものです。
○書家の造型手法は狭すぎます。歴史を見ても、象牙・獣骨・木・竹・石・布・金・銀・青銅・漆・緑青などの豊富な使用例がありますのに、何故に墨と紙ばかりをとり合わせたがるのでしょうか。
〇書家のえらぶ、文字・文章・ことばも狭すぎます。何故書きふるされた有名詩文をくりかえし書くのでしょう。王羲之・顔真卿・小野道風・藤原行成等、書の名家が、いずれも、各々の時代に密接した最も新鮮な文字と素材で、その時代の人々が熱望する書を生んだことを考えなおしてみたいものです。
 こうして、書家が、自分の好きな文章やことばを、好きな素材を用いて、よみやすく表現すれば、書は、最も興味深い造型芸術・文章芸術・言語芸術として、人々に親しまれることになるでしょう。
 現代人の怒りや喜びやあこがれなどをはっきり読みとれる、文字やことばが場内にあふれ、集まる人々が一作一作考えたり感じたり、口の中で読んだり歌ったりして鑑賞できる世界。それが書の展覧会なのだと考えています。

 

 

学習以前のこと

「楽しく学んで三ヵ月、誰でも和服が着られます」。満員電車にゆられて、じっとがまんをしていたら、こんな広告が目に入った。気持ちがいらいらしているせいか、むやみに腹が立つてきた。
「日本人が和服を着るのに何故三ヵ月も勉強しなければならないのだろうか」というのが何とも腹の立つ所である。母親がしっかりしていれば、嫁入前ごろまでに娘に和装一通りの教育をするのはわけもないことであるはずだ。ところが、後日、いろいろしらべてみたら、これが無理な理想論であることがわかってきた。日本人の日常生活が既に日本的でなくなっているのである。大正生まれどころか、明治生まれのおばあちゃまの中にも、自分の着物さえちゃんとたためない変な日本人が多いことがわかった。
 「小さい時、いろいろ教えてもらったんだけれど、いつの間にか忘れちゃった」という人が多い。
 着るものだけではない。食べるものも、住宅も、変わってきつつある。
  日本料理のダシのとりかたも知らない主婦がふえたし、床の間の使いかたもわからなくなってきた。
 それでいて、「時代が変わって行くのだから純日本式でなくてもいいのだ」という割切りかたもできないらしくて、「着付ぐらい正しくできなくては」とか、「日本料理の基本ぐらい知らなくては」とかで、〇〇学院を繁盛させるのである。
 私は、こういう傾向の勉強をしたいという人には、「おやめなさい」ということにしている。〇〇学院に恨みがあるからではなくて、学ぶ人の姿勢に問題があるからだ。
 和服の着付だけ習っても、中身も着付に調和しなければ、実用にはならない。和服を着こなすには、すがすがしい日本人としての心がまえと、きりりとした身ごなしが必要なのである。日本料理の形だけ習っても、食べる人の健康、状態や、日常の好み等に心配りがなければ、しみじみとぬくもりのある、さわやかな日本料理にはならない。
  私は幼時から、「畳のへりは踏むな」「戸の開閉は静かに」等と教えられた。「足音をしのばせるのは泥棒根性だが、ドタバタ歩くの馬なみだ」等とも教えられた。今ではこんな教育をしたら古い親だといわれるのではないかと思う。でも、こんなことから教えはじめて、周囲へのこまやかな心遣いや思いやりを身につけさせなければ、あの和服を着こなせる人間はできないと思う。
 食物でも同じだ。昔の教育は、正座して、食物を頂ける感謝の礼をし、お吸物を一口、ごはんを一口、次にもう一口お吸物を頂いて、それから好きなものを食べていい、ということになる。しかし、あちらを取ろうかこちらを取ろうか箸を迷わせることは下品、一度箸をつけたものは好みに合わなくても全部食べる。全部食べられそうもないものは、別な箸でとりわけてから頂くか、或は好きなものでも食べない。等、四、五歳ごろから食事のたびに少しずつ教えこまれた。
  知らず知らずおぼえてみると、日本の料理は量的にも、栄養的にも、食事を楽しむ意味からも、とてもゆきとどいたものであることがわかる。
 しかし、食べる人に、申し分なく楽しんで頂くために、作る人は文字通り馳けたり、走ったり、大変な働きがいるわけで、「ご馳走さまでした」というお礼のことばも真心こめていうのが当然なのである。
  日本料理は形だけのものではない。日本人の心をとりもどさなければできない。いや、日本の母の心にならなければできるものではない。
 以上、着付と料理を学ぶには、それ以前の日本人としての心がけをとりもどすことが必要だということを説明した。
  文字を習うことも、同じである。人間同士のきめこまやかなつきあいのために、ことばや文字を大切にしようと考える人なら、よい字が書けるはずだし、書けるようになる。
 しかし、文字の大切さを知ろうとも学ぼうともせず、「ちょっと形のとりかたを」とか、「ていさいのいい崩しかたを」などという人たちは、習字する資格もないのである。

 

 

書とは有用なものでなければならない

 展覧会に行くと、書とよばれる作品が見られる。殆ど現代人に読めない。読めないものが文字だろうか。内容も殆ど古典である。作者は現代語を話さないのだろうか。書家とよばれる動物がいる。一般社会の現代人を見くだす特性をもっているらしい。
「ホウ、この字が読めない。ごもっとも。これはこう読みます、サラサラサラ。わかっていただけましたかな。いやこれがおわかりとはえらい。あなたは素質がおありになる。どうです。書をやりませんか。……」
  書道塾をのぞく。書家が若者をしごいている。
「私は君を将来性ある弟子と思っとる。公の席では、社中の一人として引き立ててきた。しかるに君は生意気だ。何が創作だ、何が臨書だ。君は私の書さえ十分にソシャクしていないではないか。私は古典を学んでここまで来た。私を学べば古典はわかる。私の一挙手一投足を……」学べば立派なイミテーションになるだろう。この先生、芸術は孤であり、個性の結晶であるということも知らないようだ。
 書とはこんなものではない。こんな所にはない。もっと普通の人間世界に吾がある。
 五歳の子がおかあさんに叱られた。あやまっても許されないのでその子は泣いた。涙でガラス戸に書きつけた。「おかあさんのばか。」書になっていた。
 「かぜひかないように。だんなさんだいじに。つらいときはてがみおくれ。からだだいじに、だんなさんだいじに……」末娘を嫁にやった老母の手紙。老眼鏡を時々はずして涙をふいて、小学校も出ないよれよれの文字。だが六十年の農魂と母性愛は文字に結晶した。
 たとえば、砂漠で旅人が渇死する寸前、砂に指書する字は「水」か「助けて」か、愛する者の名か。いずれにしても書になっているだろうと思う。切実なものは人をうつはずである。
  諸君、切実なものを書こう。現代の文字で現代の言葉を思想を書こう。君たち自身の詩や歌を交換しよう。
  これからの時代、書は世界にひろがる。フランスの友に書きたまえ。「あなたの文字には苦悩がある」と。アメリカの友に書きたまえ。「あなたの文字の線には砂漠がひそむ」と。それらの友は文字をみつめ、興味をもつだろう。それが書の入口なのである。
 筆蹟が書いた人の心をうつし、人に話しかける神秘を発見したのは中国人であり日本人であった。
 しかし、今や東洋だけに止めておくべきではない。
 ロートレアモンは言う。「詩は万人によって作られねばならない。一人で作るのではない」と。この詩という字を書という字におきかえてみよう。
  一握りの書道家が書というすばらしい宝庫を独占しようとして、大衆の目を覆い続けて来た罪状が明らかになるだろう。
 諸君のあるものは、ここで反間するだろう。「書の古典や臨書をどう考えるのか」と。書物にたとえればわかる。臨書とは読書と同じことである。すぐれた古人との対話もそこでは可能である。深く対話すれば感動も大きい。その感動はあなたに火をつけるだろう。王羲之が古い習慣を次々に切りすてて今日にも通じる新鮮な書体を生んだ勇気。小野道風が唐風文化が男子の表芸だった当時、敢然とかなにも調和する和様漢字で公式文まで書いていった勇気。書史に名をつらねた人は常に身をもって時代の先端に立ち、現代の文字はこうだと叫んだ人ばかりである。
 その古人を前にして、技術だけを学ぶのはあまりに悲しい。なかには古人を尊ぶのあまり、その世界を現代に再現しようと腐心する錯誤者もある。死滅した文字を墓場から引き出して現代に流通させようと努めたり、自分の文字を古典化したりすることは、古人を尊ぶ道ではない。古人の歩みを知り、古人の心をくみとって、未来を切りひらくことが、古人の夢を満たす最高の道なのだ。
  だからまじめな臨書作品を世に問うことは先人に学ぶ意味で正しいが、創作と称しながら古人や先人のまねに終始しているものは許すべきではないのである。
 古典は母であり、ふるさとである。懐かしいけれど、そこに恋々としていてはいけない。巣立つ力を与えられたら未知に挑むのだ。
  変体がな、草書、篆隷、みなすばらしいけれど、それらは古人の所有物である。学ぶのはよいが現代に流用することは慎しまねばならない。われわれは生き残ったかなや、変形を続ける漢字や、欧文などをくみ合わせながら、完成された古典文字に匹敵しうる現代文字を生み出す責務がある。
 エリユアールは叫ぶ。
 「詩人は同胞のいかなる人々にもまして、有用な存在でなければならない。
 詩は芸術的対象ではなく実用的対象である。詩は人間を結集させるために闘う……。」

 

 

書は人なり

 「書は人なり」という言葉が、どんな人がいいだしたか、何という本にはじめて出てくるのか、私は知りません。でも、私は、このごろ、いつも、こう思うのです。同じように、「言葉は人なり」とも思います。
 人間は、ふつう、「文字を書くこと」と「言葉をかわすこと」とで意思を交流させますが、その文字も言葉も、一人一人みな違います。親子兄弟師弟などで実によく似ている文字や言葉がありますが、似ているだけで、やはり、一人一人違います。
 「書かれた文字」あるいは文字をかくことを書といいます。書に話を統一しよう。ただし、書を毛筆とかペンとかに限定せず、ひろく筆跡ぐらいの意味で考えてください。
 人間は一人一人、それぞれの書をもっています。まるっこい書、はげしい書、よみにくい書、力のぬけたような書……など。
 「書を見ると筆者がどんな人生を送っているか、どんな性格かがあるていどわかる」という人がいますが、たしかに、そういう能力のある人もいるだろうと私も思います。その人の書は、その人の生活そのものの中でその人の身についてきたものだからです。
 文を書くことをいいかげんにしている人は、実は生活のあらゆる部分がしまらない人で、そういう人の書は魂がこもっていません。上手とか下手とかではないのです。いいかげんなのです。上手とか下手とかでいえば、むしろ、上手な人のほうに魂のぬけた字を書く人が多いようです。次に多いのが「自分はどうせ悪筆なんだから」と居直ってしまっている人たち。
 まるで正反対の人種のようですが、実は、この二つのタイプには大きな共通点があります。上手な人でも、自分が生れつき持っている才能や少し特殊な教育を受けたために授かった才能に寄りかかって、心のこもった字の書きかたをしなければ、その人の書は、先方の人を動かすことはできません。悪筆だからと居直って、いいかげんな文字を書く人も恐らく心をこめた書をかくことはできないでしょう。心がこもっていないということで、この二つの正反対に見えるタイプは、ほんとうによく似ているのです。
 心のこもっていない書をかく人は、実は心のこもっていない人間なのです。心のない人間なんて、乱暴なたとえですが、こわれたロボットとあまり変わりません。
 時々かくことですが、日本人は文字型人間ではありません。文字を生んで育てた民族ではありませんから、文字の恐ろしさがよく理解できていないのです。
 心をこめて書いたかどうか他人にわかるものかと思いこむ部分が多いし、書いてある事さえ通じれば用は足りると思いこむ部分も少なくありません。
  そこで、文字を自分の意思のままに使おうとし、思ったことを思いつくままに書きつけようとする結果、速筆になり、字形なども流れにまかせるようになります。行書草書が好きで、かなも速書に適した連綿体を多く用いたがります。世間でふつう書家といわれる人のほとんどはこういう人種です。ところが、困ったことに大人になろうとする人や大人たちが、「ああ、書を習いたいな」と考える動機は、ほとんどこういう書を身につけたいと思うときです。そして、せっかく、一点一画注意深く書くように指導されてきた、貴重な書写教育を、何か子どもっぽく感じて、書写教育から離れてしまったり、質の悪い指導者のもとに移動してしまったりします。
 銀河会や現代書道研究所の会員さんたちの中にも、「中島司有の書って硬くてつまらないな。面白味もないな。芸術的な書が自由なものだとしたら、あれじゃあ芸術になりそうもないな。そろそろもっと有名な先生に就こうかな」等とお考えの方がいらっしゃるかも知れません。
 残念ながら私の示す道がわからない愚昧な方には、つける薬はありません。どうぞ、好きな方向に行って滅びて下さい。
 日本の書道界は、九分九厘、嘘です。まちがっています。
 私は、二十一世紀の書を考えています。子どもや孫の時代になっても、
「司有の仕事は新鮮で、よみやすくて、字も文も正しくて、感激しながら書いていることがよくわかるなあ」といわれたいと思うし、そのために未来の方向をむいて前進しています。新刊書を乱読に近いけれどもよく読みます。いつも何かを発見しては感動しています。未知の部分が多いから、感動する材料はきりがありません。つくづく、いつまでも幼稚ではあるけれど、毎日毎日成長できて幸福だと思います。
  古典の勉強は、火の玉のようにやっています。新しいことも大切だけれど、太古から未来に続く、真偽ということでいえば、真を見失うまいと願うからです。
 ほんとうの書は、ほんとうの人でなければ書けません。ほんとうの人とは、情愛に富み、常に正しい道を歩き、礼儀正しく、叡智を持とうと努力し、言葉や文字にあらわしたことを守る、仁・義・礼・智・信の実行者です。
 文字や言葉を崩して用い、人が読みにくくてもおかまいなく、勝手に書をかきちらす世界は、嘘です。絶対にまちがっています。