現代書道研究所常任理事 松藤司曄
全ての始まりは、平成22年12月8日、さだまさしコンサートの終演後、さだ企画丸友行常務(現・さだ企画社長)とのやりとりからだった。「来年のワールドコンサートで、まさしが『書』と『歌』のコラボレーションをやりたいと言っているんだけど、松藤さんたちに色々とお願いできないかなぁ」とのこと。驚きと同時に心躍る気分になった。
平成23年1月23日。
さだ企画の丸常務と外?照雄コンサートプロデューサー(現・さだエンターテイメント社長)が、コスモ企画を訪れ、佐伯司朗先生・方舟先生・松藤春蝉・私の6人で1回目の打合せを行う。
『書歌』と題された、さださん本人の企画書とコンサートスケジュール(リハーサルとさいたま・名古屋・神戸・東京の本番四会場)が示され、コンサートの大枠について話し合う。
この中で、日程について一つの問題が。リハーサルの最終日とコンサートの初日が毎日書道展の審査日と重なっていて、今年度当番審査員の司朗先生が出演することが出来ない。そこで、さだ企画側から「その日は、佐伯司朗先生の代わりに松藤春蝉さんに」との提案。佐伯司朗先生もそれでいいじゃないかと…。私は、これは大変だぁ〜。と、思っているうちに、打ち合わせは進み「じゃあ、4月になったら、さだ本人がこちらに伺って、詳しい打合せなどをしましょう。それから、松藤さんたちはご存じでしょうが、ワールドコンサートの内容は、コンサート初日までは、一切外に漏れないようにお願いしたい。」と言ってお二人は帰っていった。そうそう、まさしんぐワールドコンサートは、さださんのファンクラブ会員向けの特別なコンサートで、毎年、色々な内容のコンサートをやっている。初日の幕があがるまで、私たちファンは「今年は何をやるのかなぁ〜。」とドキドキしながら待っているのだ。
4月5日。
コスモ企画では、朝からさだ企画のスタッフが数名訪れ、佐伯司朗先生と松藤春蝉の揮毫風景を撮影したり、コンサートパンフ用に中島司有先生の作品写真を撮影したりして、午前中が終わる。午後は、さださんとの対談場のセットを作る為、中島司有先生の「朱鷺衰減を憂ふる報道に接して」の屏風を倉庫から出して、コスモ企画のお稽古場にセッティングする。
そして午後2時、さだまさしさん登場である。
さださんは、お稽古場に入ると佐伯先生ご夫妻と挨拶をかわし、中島司有先生の屏風作品の前で『さだまさし×佐伯司朗×佐伯方舟の鼎談』となる。(鼎談の様子は、コンサートパンフに詳しく紹介されています。)
鼎談終了後、コンサートグッズやコンサート本番の打ち合わせをしてから、さださんを囲んでコスモ企画スタッフと記念撮影。
4月下旬。
さだ企画からコンサートパンフの校正原稿が送られてきた。それを見て私は涙が出るほど感動した。
中島司有先生の作品が満載され、詳しく「書家・中島司有」がさださんの言葉で紹介されている。またパンフには、佐伯司朗先生と松藤春蝉の作品、先日の鼎談が詳しく掲載されている。
後日、さだ企画の丸社長が「今回の『書歌』パンフは、さだまさしコンサートパンフ歴代の中でも特別いいものになったね。」とおっしゃっていた。(このパンフは、既に売り切れで、手に入れることが出来ない。)
5月17日。
三郷市文化センターでワールドコンサートのリハーサル初日。
事前に依頼されていた幾つかの歌詞を書いたものを持って松藤春蝉がリハーサル会場に行く。その中から、数点、バンドの演奏に合わせてステージで書いてみる。最終的に「Birthday」と「たいせつなひと」の歌詞の一部をステージで書くことにそこで決まる。
5月18日。
佐伯司朗先生が昨日決まった2曲の揮毫をする為に、三郷のリハーサル会場に行かれる。
時に偶然は思ってもいない演出をする。この時、佐伯司朗先生の揮毫がさださんの歌より長くなり、それを見たスタッフが「これはいける!」と思ったそうだ。
5月19日。
リハーサル最終日、ゲネプロ(遠し稽古)だ。
佐伯司朗先生は、毎日展の審査員総会の為、松藤春蝉がゲネプロを行う。
予定の2曲をさださんの生歌に合わせて揮毫する。
松藤春蝉は、39年間、さだまさしの歌を聴き続けてきただけあって、スタッフ側の希望するタイミング通りに文字を書き進めていき、リハーサル一回でOKが出る。
帰り際に、それぞれの部署のスタッフから、色々な宿題が春蝉に出される。例えば、二部のステージでさださんが歌う数曲の歌詞をスクリーン用に筆文字で書くとかコンサート終演後何時もロビーに『本日の演奏曲目』というボードが出るが、それを筆文字で書いてほしいなど。
さいたまの本番は二日後。春蝉は、徹夜でそれらを書くことになった。
5月21日。
私は南浦和の駅前で、佐伯方舟先生と金田翠夢先生と昼過ぎに待ち合わせをする。そこへ、毎日展の仕事場から駆け付けた松藤春蝉が合流し、さいたま市文化センターへ向かう。
本番は17時から、松藤春蝉の出番は開演後すぐ。
コンサートが始まると中島司有先生の写真がスクリーンに映し出され、中島司有先生の紹介と今日のゲストとして松藤春蝉が紹介された。松藤春蝉は今日の日を迎えるにあたってどんな思いだろう。さだまさしの詩を書きたいからと近代詩文書という分野に取り組み、さださん以外の詩はほとんど書かない。それほどに惚れ込んださださんだ。嬉しいことに違いない。しかし、中島司有先生の偉大さを知っている松藤春蝉。佐伯司朗先生の代わりという重責は想像以上だろう。
さださんとの対談でのネタに松藤春蝉は自分の持っている珍しい筆を用意。孔雀、リス、猫、人毛、白鳥など二十本も持って行った。
さださんとのトークは、全てアドリブだ。「うまくいくだろうか。」そんな心配をよそに着々とさださんとの対談ははずみ、予定通り2曲コラボレーションする。
舞台袖で見ている私はドキドキだが、ステージの松藤春蝉はいつも通り淡々と事を進めている。「あがらないのかしら」と思いながらステージを見守る。
出番が終わり舞台袖にもどってきた松藤春蝉の第一声は「楽しかったぁ〜。」であった。
きっと39年間さだまさし一筋で生きてきた松藤春蝉にとっては、この一瞬は夢の到達点で、この場を楽しむことが先だったようだ。きっと、写真の中島司有先生が見守ってくださって、松藤春蝉に最高の舞台を与えてくれたのだろう。感謝、感謝、合掌。
5月23日。
この日は本来、東京国際フォーラムでのコンサートが予定されていたが、震災で会場設備の一部が故障し、コンサートが7月24日に延期になった。しかし、この時に既に東京公演のチケット販売は終わっていたので、延期になったといっても、チケットの入手は困難な状況であった。
5月27日。
名古屋でのコンサートに向う為、東京駅の新幹線ホームに着くと、既にさださんと佐伯方舟先生がホームのベンチで話をしていた。
その日の日経新聞の夕刊にさださんが中島司有先生と佐伯司朗先生の事を書き、ワールドコンサートの紹介をしているとの事、記事を読むのが待ち遠しい。
のぞみで一時間半、名古屋駅に到着。そのまま、タクシーで名古屋国際会議場センチュリーホールへ移動。
先生方と私は、スタッフへの挨拶回り、松藤春蝉はステージの準備を進める。
18時開演。佐伯司朗先生の出番は、開演から10分後。舞台袖で墨の準備をしながら出番を待つ。
コンサートの1曲目は「あなたが好きです」。これはその昔、中島司有先生の作品を見て感動したさださんが作った歌で、その中島司有先生の作品がステージの大きなスクリーンに映し出される中でさださんが熱唱。
2曲目は「桃花源」。中島司有先生が楷書作品にされたものがスクリーンに映し出される。その瞬間、会場からは、その文字の美しさに感動したのか、大きなどよめきが聞こえる。
そして、佐伯司朗先生の出番。さださんと佐伯司朗先生は、宮内庁文書専門員のお仕事の内容や書について暫く対談した後に、2曲コラボレーションを行う。ステージ上の大きなスクリーンに佐伯司朗先生の揮毫風景が映し出される中、さださんが歌う。
コラボの1曲目は「Birthday」。舞台袖にいる私たちにもステージ上の緊張感が伝わってきた。佐伯司朗先生が揮毫を終えると、まだ、さださんが歌っているのに、会場からは拍手がおこった。
2曲目は「たいせつなひと」。さださんが歌い終わっても佐伯司朗先生の揮毫は終わらない。会場は水を打ったように静まり返っている。佐伯司朗先生が最後の一行を書くのを三千人のお客さんが息をのんで見つめている。
〓ゲネプロの日〓
佐田繁理さだ企画会長が「まさしが歌い終わる。お客さんが息をのんで先生が書くのを見つめる。これだ、これ最高の演出だ。」と言っていた通りの光景になる。
佐伯司朗先生が最後の一行を書き終えると会場が割れるほどの拍手に包まれる。その拍手に送られ、佐伯司朗先生がステージを降りてくる。舞台袖では、舞台監督の桜井さんが「お疲れ様でした。最高です。ありがとうございました。」と迎えている。本番を終え、ホッとした表情の先生を私たちも拍手で迎える。途中休憩の時に、日経新聞を見たと恵比寿教室の方からメールが入る。早速の反響に驚く。
佐伯司朗先生の出番が終わっても、さださんが歌う曲のタイトルが司朗先生の文字で一曲ずつスクリーンに映し出される。楷書・篆書・隷書など様々な書体でそれぞれが多彩に書かれている。
篆書などは、一般の人に理解できるのかとの疑問をよそに、外嵜プロデューサーは「ファンクラブのお客さんは、さだの歌が始まればすぐにタイトルはわかりますから。色々な書体があった方が格調高くなるので…。」とおっしゃったそうだ。
コンサートの後半「前夜」という、朱鷺を題材にした歌のところでは、スクリーンに中島司有先生の屏風作品が映し出される。
コンサート最後の歌は「夢しだれ」。サビの部分の歌詞が佐伯司朗先生の文字でスクリーンに映し出される。この歌の最後「風、風」と歌い上げる部分では、スクリーンの「風」と言う文字が舞い上がっていく演出もあり、緞帳が降りる。
しかし、会場の拍手は鳴りやまない。もちろんアンコールである。
アンコールの1曲目は「いのちの理由」。佐伯司朗先生が楷書で書かれた歌詞がスクリーンに映し出される中、さださんはギターだけで語りかけるように歌う、超感動。
ステージで頭を下げるさださんへの万雷の拍手は鳴りやまない。さださんは、バックメンバーをステージに呼び入れ、もう一曲、「落日」を歌う。
この曲のサビの部分は、会場みんなで歌うのが恒例。その部分になるとスクリーンには、♪しあわせになろう いつかかならず 約束をしよう しあわせになろう♪と佐伯司朗先生の文字が浮かび上がる、自然と目から涙がこぼれる…。感動で、気を失いそうになる。
気がつけば、私たちは名古屋市内の打ち上げ会場にいた。
さださん、バックミュージシャン、スタッフ、そして、佐伯先生夫妻と私たちは、ステージの余韻を引きずったまま、夜中まで盛り上がった。佐伯司朗先生は、無事ステージを終えて安堵したのか、超ハイテンションでさださんと飲みながら語っていた。
5月29日。
神戸での本番。大阪の宿舎からタクシーで会場へ移動。
新幹線でやってきた佐伯琴音さんと佐伯五十鈴さんに楽屋で合流。二人が持ってきた日経新聞を読み、さださんのこのコンサートへの意気込みが並々ならないことを知る。
こうして公表されると、みんな東京公演を見に行きたくなるだろうなぁ…。スタッフは「チケット殆ど残ってない」と言っていたし、と一人で心配になる。
この日は、舞台袖のサポートは、佐伯方舟先生、松藤春蝉、佐伯五十鈴さんに任せて、佐伯琴音さんと私は、東京公演にそなえて、佐伯方舟先生から「客席で見て気付いた事を知らせて」とのお役目をいただき客席でステージを見ることになる。
「あなたが好きです」のイントロが始まり、スクリーンに中島司有先生の作品が映し出された瞬間、大粒の涙が頬をつたう。
もちろん幾度も見ている中島司有先生の文字だが、私にはこの作品と歌に深い思い出がある。
29年前、さだファンだった私は、福島の実家でさださんの深夜放送を聴いていた。この歌が出来たエピソードと共に「書家・中島司有」の名前をさださんの口から聞く。そして、この歌に引き寄せられるかのように、國學院大學栃木短期大学へ進み、中島司有先生と出会う事になる。まさに私を書道人生へ導いてくれた作品なのである。そして、私より先にさだファンであった松藤春蝉とのかけがえのない出会いもさださんと中島司有先生のお導きなのである。そんな思い出が走馬灯のように頭を巡り、涙が止まらない。
佐伯司朗先生がステージに登場しても涙でかすんでステージが良く見えない。隣の席では、佐伯琴音さんが心配そうな表情でステージを見つめている。佐伯琴音さんがコンサート終了後のタクシーの中で「ステージのパパは心配だし、隣では号泣してるし…、大変だった。自分の方が疲れた。」と言っていた。
台風の接近で対談が少し短くなったのは残念だったが、神戸のステージも無事、終了。
大阪の宿舎に戻ると、またまた打ち上げである。私たちと一緒のテーブルで飲んでいたバックメンバーの三人が「私たちも長い間この仕事をしているけど、今回のステージは、本当に素晴らしかった。お客さんよりもずっと近くで揮毫風景も見せてもらって、本当に感動した。格調高かったよね。よかった、よかった。」と私たちに語ってくれた。
7月24日、東京国際フォーラムホールAの客席五千席が満席の中、まさしんぐワールドコンサートの最終公演。
神戸のステージから約2ケ月の間が空いて、コンサートメニューに一部変更があったが、佐伯司朗先生の出番は同じで対談と2曲のコラボレーションが行われた。
佐伯司朗先生はさださんとの対談で毎回新しい話題を考えていて、今回は青銅器の鼎を持参。私もその話を聞いて、初めて『鼎談』の意味も理解した。トークの盛り上がりも最高だった。「たいせつなひと」の揮毫では、さださんが歌い終わっても佐伯司朗先生が書いている時間が、名古屋・神戸の時よりも長く、シーンと静まり返った会場に筆が紙の上を走る音だけが響く。こんな音がするんだと、あらためて感動。
この日は、毎日新聞社の取材も入り、記事が8月11日毎日新聞夕刊に掲載された。
さだまさしコンサートは全国各地でこれまでに4000回近く行われてきた。その中で500回以上のコンサートに足を運んでいる松藤春蝉は「最初に丸さんから今回の話を聞かされた時、熱心なさだファンの立場で考えて『書』と『歌』のコラボレーションでどんな事をやったらさだファンは納得するのかなぁ。」とずっと心配していた。しかし、フォーラムの帰り道「特別なことをしなくても、自分たちがこれまでやってきたことを信じて、黙々とやるだけで、お客さんは感動するんだなぁ。誰もが読める、正しく美しい文字を書くという、中島司有先生の教えこそ、多くの人の感動を呼ぶ源だったんだぁ。」と中島司有先生の偉大さをあらためて実感し、噛みしめるように言った。「佐伯先生のサポートをやらせていただき、本当に貴重な、楽しい経験をさせてもらった。」とも言った。
一口にサポートと言うが、松藤春蝉は佐伯司朗先生が揮毫しやすいようにと、紙の置き方から文鎮の位置、墨の濃度まで心を配っていた。
今回、佐伯司朗先生が用意されたのは、最高級古端渓硯と和墨。舞台上は強烈なライトで墨の水分が蒸発して、すぐ濃くなってしまう。墨汁ではないので、ステージ上で揮毫する度に水を足して調整するのは難しかったと思う。
そして松藤春蝉は「まさか、自分がステージに上がるなんて思ってもいなかったけど、今回、ステージに出演させていただき、夢のようだったよ。」と、もちろん私も夢のような日々だった。
さださんと佐伯司朗先生は、同じ辰年生まれの同年である。そして、佐伯司朗先生は、中島司有先生のそばにいて、さださんとも長く交流があった。
さださんとこうしたコラボが出来た事は、私たちにとっても何物にもかえがたく、ありがたいことであった。
これからも、こんな企画が実現したらと願わずにいられない日々であり、こうした恵まれた環境で書を続けられている自分たちの幸せを痛感した。